2012年4月12日木曜日

ボブ・ディラン(Bob Dylan):追憶の名盤61:So-netブログ


一般的にはどうなのかわからないが、少なくとも僕はこの前の『At Budokan』までを「70年代までのディラン」、そしてここでとりあげる『Slow Train Coming』からを「80年代以降のディラン」(実際には『Slow Train Coming』は1979年8月の発売でギリギリ70年代なのだが)として、大きく2つに分けてとらえているふしがある。「ふしがある」なんてなんだか他人事のようだが。でも、たしかに「そこまで」と「そこから」では、たんなる音楽的な印象以上の「何か」が致命的に違っている気がする。乱暴な言い方をすれば、その2つのディランはまったく違うミュージシャンとして聴かれるべきだとすら思っている。

でもそれは、たぶんディランに限ったことではないのだとも思う。それは、ロックを含むポピュラー・ミュージック全体が直面した時代の変化なのだ。洗練と細分化と商業化は、あっという間にロックの可能性を掘り尽くし、方法論のカタログ化を押し進めてしまった。うまくは言えないが、鶏が先だった時代から、卵が先の時� ��へ、といった感じ。ともかくここからのディラン(というかほとんどすべてのミュージシャン)にとっての問題は、いかに新しいサウンドを生み出すかではなく、いかに既成のサウンドとうまく付き合っていくかへとシフトしていく。その視界に映る光景は、テキサスの荒野とニューヨークの摩天楼くらい違ってくる。音楽に限らず、ある特定の表現様式が成熟するというのはそういうことなのだ。良くも悪くも。

というわけで、『Slow Train Coming』から『Saved』、そして『Shot Of Love』へと続く、俗に言う「キリスト教3部作」である。そう一括りにされているのは、この時期のディラン自身が神への目覚め、キリスト教への改宗を明言していたこともあるが、たとえば歌詞が明らかにそういった傾向を帯びたり、サウンド的にもゴスペル形式のような南部志向を強めたりしていたからという理由も大きい。もちろん日本人である僕たちにはこの宗教的な問題が意味する微妙なところは伝わりにくいし、ましてや歌詞の面での変化を語れと言われても厳しいものはある。だが、そこに込められたメッセージ(歌詞だけではなく)がどれほど優れていようとも、出てきたものが音楽として優れていなければ意味はない。逆に言えば、真に深く優れたメッセージは、音楽自体をも優れたものにするはずだ。僕たちは、そうや って音楽から「メッセージ」を受け取っているはずなのだ。言うまでもなく1970年代以前も、そして1980年代以降も。


Slow Train Coming/Bob Dylan
(邦題『スロー・トレイン・カミング』)
(1979)
★★★★☆

2012年4月11日水曜日

CIMAマルチプロジェクターキセノンヘッドランプの移植(1/2): SOARISTO工房


[はじめに]

 それは、ある1通のメールから始まりました。
   「SOAさん、こんなDIYを見付けました。つぎはこれがいいですよ!(爆)」
 そこには、新型CIMAのヘッドランプを、フォグランプとして取り付けたDIYが紹介されていました。
   「す、すごい!」
 目も眩むばかりの圧倒的な光量といい、前方に向かって一直線に進む配光パターンといい、まさに理想的なフォグランプとなっていました。

 しかし、SOARISTO号のフォグランプのHID化はすでに完了していますし、第一、これだけの大きさのフォグランプを取り付けるスペースなどありません。
   「う~む、困った」
 しかし、「(爆)」と言われてしまったからには、是が非でも完成させるしかありません。こうなったら職人の意地です。(笑)

 フォグランプとして、どこに取り付けようかと頭を悩ませていたところ、はたとあることに気付きました。
   「ロービームに入るじゃないか!」
 そうなのです。ARISTOのヘッドランプのロービーム側が、新型CIMAのヘッドランプを埋め込むのに、ちょうどいい大きさをしています。

 しかしそのためには、純正のディスチャージヘッドランプユニットを分解し、新型CIMAのヘッドランプユニットを取り付けられるよう、かなりの改造が必要となってきます。

 さらには、ARISTOに移植するにあたっての最大の難問として、車の加重状態に応じてヘッドランプの光軸を調節する「オートレベリング機能」を、どのように活かすか、があります。

 すでに、VIPカーといわれるカテゴリーの車には、新型CIMAのヘッドライトを無理矢理移植したものが出ています。ただ、光軸がバラバラであったり、配光が不自然になってしまっているものも、中にはあるようです。せっかくの移� �ですが、ルックスを優先したが故に実用性をスポイルしまっては、意味がありません。

 そこで、「ルックスと実用性を両立させた移植」を第一目標とすることにしました。新型CIMAのヘッドランプの特徴的なデザインや圧倒的な光量を活かしつつ、オートレベリング機能をきちんと動作させ、日常のドライビングにも何の支障も来さないこと、また限りなく純正に近いクオリティーで作り込みを行うこと、この2つを主眼(!)とします。

 ここに、「フォースは我に、新型CIMA複眼移植プロジェクト」が発足したのでした。
(ちょっと大げさか?)0xF9C7

[マルチプロジェクターヘッドランプについて]

 新型CIMAのアイキャッチポイントとなっているマルチプロジェクターヘッドランプですが、日産さんによると、「従来のプロジェクターの1.7倍、世界最高レベルの明るさを実現した」とのことです。

[写真1]


  • 東京モーターショーに展示されていた、新型CIMA(F50)のマルチプロジェクターヘッドランプユニットです。(写真1)
  • 説明には、「7眼化により、大口径双放物面リフレクターによる高い光束利用率と、レンズ軽量化を両立させたヘッドランプ」とありました。
  • 自動車工学の紹介記事によると、「マルチレンズと特殊な自由局面リフレクタの組合せおよび7つの凸レンズで、大光量をより広く最適に配光し、従来のフォグランプの照射範囲もカバーする」そうです。

 

[写真2]

2012年4月9日月曜日

■Bobby ボビー|ツボヤキ日記★TSUBOYAKI DIARY



■Bobby ボビー(原題)

●エミリオ・エステベスが脚本、監督を手がける「ボビー」…出来の如何を問わず、ある世代は見たいという欲求に駆り立てられるかもしれない。「ボビー」とは、故Robert Francis "Bobby" Kennedy、ロバート・F・ケネディの愛称だった。
上院議員として暗殺された兄、ジョン・F・ケネディの後を継ぐもの、時期大統領候補として、民主側にいた一般大衆のほとんどが疑うことがなかったその存在。そのボビーが兄に続き、暗殺されたのは、1968年6月6日。
場所は、ロサンゼルスのアンバサダーホテル。

物語は、あの日、あの時、ボビーが殺された時、アンバサダー・ホテルに居合わせた22人に視点を当てて、彼の死に直面した人々がその時にどう影響されたのか、といった場面展開になるようだ。

2012年4月8日日曜日

ジョン・レノン - Wikipedia


ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(John Winston Ono Lennon, MBE、1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド・ビートルズのメンバーで、ボーカル・ギターを主に担当した。

出生名はジョン・ウィンストン・レノン(John Winston Lennon)であったが、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第5位[1]。

1960年代に世界的人気を得たビートルズの中心的メンバーであり、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作した。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年12月8日23時頃(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性により射殺された。

[編集] ヒット曲

『ギネス・ワールド・レコード』では、最も成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)」と紹介されている。ビートルズ時代には、「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」、リードボーカルを採る「プリーズ・プリーズ・ミー」「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「愛こそはすべて」「アクロス・ザ・ユニバース」「カム・トゥゲザー」、ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」などを発表した。

[編集] 生い立ち

幼年期

1940年10月9日(18時30分)、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父・アルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母・ジュリアも他の男性と同棲していたため、母の姉・メアリー(ミミ伯母さん)夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時の英国首相ウィンストン•チャーチルから。

1946年、父・アルフレッドが帰国し、父に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母・ジュリアがジョンを連れ戻すが、母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫婦のもとで育った。父もまた行方不明になった。

[編集] ビートルズデビューまで

少年時代

1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。

1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。

1957年、処女作・「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。

ポールとの出会い

3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。 7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人(アイヴァン・ボーン)の紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーと言ったアメリカのロックンロールに夢中になった。

ジョージ・ハリスンとの出会い

1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンのクオリーメンへの加入を認めた。

母の死

1958年7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。[2]この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、またすでに(1956年 14歳の時)母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。

1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート(Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。

ハンブルク

この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。ジョンはハンブルクの楽器店で1台目のリック325を購入した。 1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルバー・ビートルズ」と変わっていた。 8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。 1961年4月ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。ジョンはすぐにポールを説得してベーシストにする。ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。[3]また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍で死去した。 6月ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」をレコーディングした。

[編集] ブライアン・エプスタインとの出会い

1961年12月ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者ブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるも不合格となった。 6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピートを解雇し、以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマー、リンゴ・スターが加入した。 10月5日「ザ・ビートルズ」としてレコードデビューを果たした。

[編集] 最初の結婚

1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。

シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノンは1963年4月8日に誕生した。しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。

[編集] キリスト発言

1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次のような発言を行なった。

「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。

「僕がもし、"テレビがイエスより人気がある"と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

[編集] ジョンとヨーコ

1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War(日本では1993年にビデオで初めて発表。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。

二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。

結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記された。

彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスがベトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。

2012年4月7日土曜日

海外ドラマ『ホワイトカラー』| 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント


この番組の見所は何だと思いますか?

マット・ボマー:「この番組の魅力は、究極的には、すごく型にはまったFBIエージェントと向こう見ずな詐欺師という、普通ではあり得ない人間関係について描かれているところだと思うんだ。そしてそんな彼らの関係性がどのように変わっていくのかということとか、敵対者でありながら、究極的にはお互いをいかに尊敬し合っているのかということ。そのふたりの関係性の間にあるエネルギーが、物事を常に新鮮で興味深いものにしていることが番組の魅力になっていると思うんだよね」

ニールのキャラクターは非常に愛すべき役柄ですが、彼を演じるにあたってどのように役作りしているのですか? 「泥棒成金」のヒーロー像が頭の中にあったのでしょうか?

マット・ボマー:「クリエイーターのジェフ・イ―スティンと始めの頃に、情報源となる資料を読み、役柄の参考となるものについてはよく話し合いをしたんだよね。『泥棒成金』(55年)のケイリー・グラントから、『スティング』(73年)のポール・ニューマンから、それに、「フェリスはある朝突然に」(86年)ですらね。彼は大きな子供みたいなところがあって、完全には大人になりきっていないし、衝動的な行動をする。自分自身に正直であるところがあるからね。それから誰がいたかなあ。そうそう、『キャッチー・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)のフランク・W・アバグネル・Jr。とかね」

彼らのファッションも頭の中にあったのですか?

2012年4月5日木曜日

シュメール - Wikipedia


シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。

1877年、フランス隊によってテッロー(シュメール都市ラガシュ)遺跡が発掘され、シュメール文明の存在が明らかにされた。以後20世紀の20年代にかけて、シュメールの主要都市であるニップル・ウル・ウルクの発掘が米・英・独によって行われ、シュメール語で書かれた楔形文字粘土板が多数出土した[出典 1]。

[編集] シュメルかシュメールか

第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇呼称の古語「すめらみこと」を「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行したためシュメル学の先達、中原与茂九郎[註釈 1]京都大学名誉教授が混同されないように「シュメール」と長音記号をいれて表記した。シュメルの方がアッカド語の原音に近い表記[出典 2]。

[編集] 初期シュメール

「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人へと知覚された関係を示す。シュメール人自身は自らを「混ざり合わされた者」(saa-gi-ga)と呼び、その土地を「キエンギ」(Ki-en-gi、「君主たちの地」の意)と呼んでいた。アッカド語の「シュメール」はおそらくこの名前を方言で表したものであろう。彼らが「カンガ」あるいは「キエンガ」と自称する言語学的グループの異称のままであった。

シュメールの言語、文化、おそらく外見は周囲のセム系の民族とは異なっていた。しかしシュメールの男子像を見る限り大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌した像もあるので未だ謎である。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自をもつとの観点にいたっている。他の学者はシュメール人とはたんに言語学的な概念であり、シュメール語についてのみ適用され、民族集団としてのシュメール人を分離して示すことはできないということを示唆している。その場合、シュメー� ��人は正確には「言語学的シュメール人」ないし「カンガ人」と呼ばれるべきであろう。スバル人による異称は、メソポタミアやレバントにおけるセム語を話すさまざまな言語グループと結びついていて、シュメール語の言語的基盤とは関係がなかった。

一部の学者は、シュメール語と、エラム語やドラヴィダ語との言語学的結びつきを考慮している。しかし言語学においてより一般的に受け入れられている説では、シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。

[編集] ウバイド文化

ティグリス・ユーフラテスに囲まれた"肥沃な三日月地帯"において、これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるようになった[註釈 2]のは紀元前8000年頃だった。当初は天水農耕に頼っていた彼らであったが、のちに灌漑農法を導入するようになり、年間降水量200mmの限界線を超えて周辺地帯にまで農耕文化は拡大、穀物の収穫は大幅に増加した。

2012年4月1日日曜日

香道:香りを聞く-日本の良いもの・美しいもの


香席の詳しい手順や作法は、ここでは説明をしませんが、「組香とは、2種類以上の香を使って一つのテーマを表現し、鑑賞するもの」という説明だけではどこが面白いのか、さっぱりわからないと思うので、いくつか例をあげて簡単に説明します。

1.宇治山香(うじやまこう) (▲)

喜撰法師の「我が庵は都のたつみ鹿ぞ住む 世を宇治山と人はいふなり」という和歌をもとにしたもので、五種類の香木を用意し、はじめに一通り順に香炉でたいて出席者に匂いを聞かせます。これを試香(こころみこう)といいます。次が本香で、香元がその中の一種類を選んでたき、それが試香の何番目のものかを当てます。答えは各自、半紙(名乗紙という)に筆で書きます。このとき「一番目」とか「二番目」とか書くのではなく、