2012年4月23日月曜日

『必読書150』は必読書か


『必読書150』は必読書か

>日本書記』

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876 :吾輩は名無しである:2009/07/19(日) 07:45:20

最強国学者の本居宣長が古事記と日本書紀は日本人の聖典と言ってんだから大人しく読んどけよ

877 :吾輩は名無しである:2009/07/19(日) 10:45:46
>>869信者じゃないが、グノーシス主義に興味があったからとりあえず通読したんだよ。
偏見でものを語るな。
878 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/07/19(日) 12:11:18
>>877
きゃははは。
馬鹿まる出しだw
グノーシスなら新約聖書だろw
グノーシスが何かもよく分からずにテキトーな後づけの言い訳屁理屈こねてやがるw
聖書を読まず、グノーシスを知らずに偏見で言い訳するから、こういう無知さらすんだよなw

やっぱりここは2ちゃんだな。
バカしかいない。

つ >日本書記』

880 :吾輩は名無しである:2009/07/19(日) 18:40:09

「中論」「唯識三十じゅ」「易経」「老子」「荘子」「伝習録」「菜根たん」「へきがん録」「無門関」「いんしつ録」「呻吟語」

旧約も読むだろ

882 :吾輩は名無しである:2009/07/20(月) 19:27:03

メリークリスマス

883 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:40:03
>>878新約、ユダ福、マリ福、ユング思想入門等も読みましたけど何か?
884 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:41:57

日本書記!日本書記!

885 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:44:15

不要陰唇バカ丸だし。きゃははははは

886 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:48:23

陰唇丸出し。旧約聖書で一番印象深いエピソードを書いてみな。
どうせこいつは読んでないwwwww

日本では書記じゃなくて委員だよな

2012年4月22日日曜日

ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃


ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを併合、そして後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了する予定になっていたという。しかもその間、イギリス、フランスは無干渉でいるだろうと計算していたらしい。そして、ヒトラーが計画していた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」ではなく、ユダヤ人たちを東方地域へ移住させることだったという。

しかし、計算が狂ってしまった。特に1940年5月11日にイギリスの宥和派であるチェンバレン首相が解任され、チャーチル首相が登場すると、大きく計算が狂ってしまったという。

イギリスの対ヒトラー政策を、「宥和」から「全面対決」へ突然変えた男、チャーチル。彼はナチスの脅威からヨーロッパを救った平和の使者だったのか? それとも……

 


ベルヒテスガーデンにイギリスの
チェンバレン首相(中央)を迎えたヒトラー

 

ヒトラー(枢軸側)の最大支配・占領地

 


イギリスのロスチャイルド家の代理人
ウィンストン・チャーチル首相。彼の
登場とともに、ドイツの一般市民に
 対する大量爆撃が始まった。



廃墟になったドイツのドレスデン(1945年2月13日)

米英空軍の4日間にわたる徹底した無差別爆撃で、
宮殿や教会など18世紀バロック建築の建ち並ぶ
文化の街は一変、瓦礫と化した。これは
チャーチルが犯した戦争犯罪である。

 

第二次世界大戦でのヒトラーとロスチャイルド家の関係については、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)が詳しい。(以下に、該当する部分を載せておきます。参考までに)。

 


ロスチャイルド家の紋章

────────────────────────

 

── ロスチャイルド家の代理人、チャーチルの反撃 ──

 

ウィーン・ロスチャイルド家の当主ルイスが逮捕された1938年には、ドイツを離れてアメリカを訪れていたマックス・ワーバーグがとうとう帰国不能となって、さしものワーバーグ銀行が閉鎖された。次いで1939年には、大作曲家を誕生させたメンデルスゾーン商会が8月に消滅した。こうして見えないロスチャイルドの最後の牙城も、ドイツではハーケンクロイツ(カギ十字)の影に消され、一切が見えなくなった。その8月が過ぎ去ると、9月1日であった。ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。


◆


実際には、ドイツ、イタリア、日本は、これよりはるかに前から戦争に踏み切っていた。「1939年9月1日」が世界大戦開始の日付けとされるのは、ドイツのポーランド侵攻によって、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味していた。言い換えれば、「ロスチャイルド本家がただ2ヶ所だけ残っているイギリスとフランス」が反撃の行動に移った、それが世界大戦であった。

2012年4月20日金曜日

聖パトリック司教 - そよかぜカレンダー


澤田豊成神父のそよかぜカレンダー

(マタイ18・21-35)

 聖パトリック司教の記念日は3月17日。日本の教会の典礼暦では、長崎の信徒発見記念日と同じ日にあたります。

 アイルランドの教会の保護者である聖パトリックは、390年ごろ、現在のイギリスで生まれました。この聖人の生涯については、多くの伝承物語が残されていますが、歴史的に検証可能な要素はそれほど多くありません。亡くなった場所や年も明確ではありません(おそらく461年?)。しかし、聖パトリックのものとされる著作をとおして、ある程度の略歴を知ることは可能です。

 パトリックの生まれ育った町は、海に面していたようです。彼は、16歳のとき、アイルランドの海賊集団によって連れ去られ、奴隷として売られ、アイルランドで働かされます。この「事件」によって、パトリックは勉学を� �断せざるをえず、そのため、後に司教になってから学力、特にラテン語の語学力の不十分さを絶えず批判されることになります。

 パトリック自身の言葉によれば、奴隷の境遇に追いやられるまでは、彼はさほど熱心な信仰を持っていたわけではないようです。しかし、一日中、動物の世話をしながら、次第に神の愛に突き動かされるようになり、朝夕を問わず祈り、また熱心に働くようになりました。

 ある夜、パトリックは幻を見、彼を祖国へ連れ帰ってくれる船が港に停泊していることを告げられます。彼は、すぐさま逃亡を試み、320キロにもわたる逃走の末、アイルランドの軍船に乗り、困難の末に祖国に戻ることができました。その後、宣教のため再びアイルランドに渡るまでの約20年間、パトリックがどこで勉強を� �、司祭に叙階されたのかははっきりしていません。現在のイギリス、現在のフランス、ローマなどさまざまな説があります。いずれにせよ、パトリックは432年に司教としてアイルランドに向かいます。

2012年4月19日木曜日

銀の森のゴブリン: 文化・芸術


  昔まだパソコンではなくワープロを使っていた頃(ほんの3、4年ほど前までワープロを使っていたのです)のフロッピーを整理していたら、懐かしい原稿が出てきました。ある事情があって書いていたものですが、捨てるのには惜しい。そこで映画を観なかった日の埋め草にすることを思いつき、パソコンに取り込みました。
 イギリス小説の単なる紹介記事で、大した内容ではありません。ただ最近でも「オリバー・ツイスト」や「プライドと偏見」などイギリス小説の映画化は連綿と続いていますので、何かの参考にはなるでしょう。毎週1作を取り上げていたので、当時は非常につらかった。単行本を1週間で1冊読み上げ(もちろん翻訳です)、おまけに紹介文まで書いていたのだから当然ですが。幅広い人に読んでいただけたら当時の苦労も報われます。

【ヴィクトリア時代】
・ヴィクトリア時代(1837-1901)
  ヴィクトリア女王はわずか18歳で即位。英国史上最も輝かしい栄光の時代。

ヴィクトリア時代とは、いうまでもなくヴィクトリア女王が在位した時代のことで、1837年から1901年までの65年間を指す。ヴィクトリア初期(1837-50)、ヴィクトリア中期(1850-70年代)、ヴィクトリア後期(1870年代ー1901)の三期に分けて考えるのが一般的である。
 19世紀のイギリス史は、1870年代を境に大きく二分して考えることができる。1870年代以前は、世界に先駆けて産業革命をなしとげた工業国イギリスが世界の霸者となる躍進期であり、1870年代以降は、いわゆる「帝国主義」の時代で、それ以前が躍進期であるのなら、この時期は、イギリスの今日にまでいたる後退期の始まりであった。
 従来の通説は、産業革命の進展とそれにもとづくブルジョワ階級の発展を歴史叙述の機軸としていたが、その場合ややもすれば、ブルジョワ階級の経済力の増大をそのままかれらの政治支配権の増大と同一視する傾向があった。しかしながら、このさい、われわれもまたはっきり留意しておかなければならないのは、第一次選挙法改正と穀物法撤廃という画期的事件のあとに到来した1850-70年代のヴィクトリア中期においてさえも、上下両院をはじめとする全イギリスの政治機構は、なお地主階級によってほぼ完全に掌握されていたという事実であって・・・政治的な支配体制という見地からすれば、1870年代までイギリスは地主階級による貴族政の国家だった・・・。

 1832年の選挙法改正と1846年の穀物法廃止の最たる史的意義が、それぞれブルジョア階級への参政権付与と自由貿易の実質的な確立にあることはすでに周知のところである。
 一方労働者階級の運動についてみれば、まず19世紀の前半はまさしくイギリス労働者階級の英雄時代であった。ラダイト運動、オーエン主義、労働組合主義、政治的チャーティズムと様々な運動が起こったが、伝統的な地主・貴族階級がブルジョワ階級と手を結んだとき、これと対抗するのには結局のところあまりにも非力であった。したがって、ピータールー事件に始まり、第一次選挙法改正の運動、全国労働組合大連合をへて新救貧法反対闘争からチャーティズムへといたる敗北の歴史は、労働運動の歴史は、これを遺憾なく物語っているといえる。
   参考文献:村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』(ミネルヴァ書房:1980年)

2012年4月17日火曜日

シャルル・ダンジュー3


 ノルマンのルッジェロ2世によって1130年建国されたシチリア王国は12世紀末、婚姻によって皇帝ハインリヒ6世の手に渡り、シュタウフェン家と結びつけられた。そしてその子フリードリヒ2世はシチリアを中央集権的な官僚国家につくりあげ、この王国を中心としてイタリア支配を実現しようとしていた。教皇が政治的独立を守るためにこれに激しく抵抗したことはすでに述べた。

 ここで重要なのは、教皇がシチリア王国に対する宗主権を主張していたことである。その根拠は、ルッジェロ2世の戴冠やフリードリヒのシチリア王国相続が教皇の承認を経て行われたということにあった(4) 。したがってこの説によれば、教皇とフリードリヒ2世は封主・封臣という関係でもあり、法的には教皇は王国をフリードリヒから取り上げる権利を有することになる。実際、インノケンティウス4世は1245年にフリードリヒの廃位を宣言していた(5) 。もちろん、これを実行に移すことは皇帝の生前は事実上不可能であった。

 フリードリヒが1250年に死ぬと、インノケンティウス4世はこれを好機と考え、シチリア奪回にむけて動き出したが、やはり独力では無理であった。フリードリヒ2世の後継者コンラート4世が1251年、ドイツからイタリアに入り、シチリア王国の支配を固めたからである。1254年にコンラートが幼少の嗣子コンラディンを残して死んだ後も、フリードリヒ2世の庶子マンフレディがドイツ軍団とムスリム軍団を掌握し王国を平定した。その後、マンフレディは全イタリアを支配するほどの勢いを示し、教皇はシチリア奪回どころか教皇領の支配すら脅かされる状態となったのである。

 ここに至り、教皇は当初の教皇領編入という方針を断念し、そのかわり、コントロールが効く外国君主にシチリア王冠を授け、シュタウフェン家征討を依頼することを企図した。

 その要請に対し最初に応えたのはイングランド王ヘンリー3世であった。イングランドはジョン王以来、教皇の封建家臣の地位におかれており、ヘンリー3世自身も敬虔な人物で教皇に対して従順であったためである(6) 。1253年にインノケンティウス4世は最初にヘンリー3世の弟のコーンウォール伯リチャードと交渉したが拒否された。そのかわりにヘンリーは若干9才の末子エドマンドを推し、その結果シチリア王国は教皇からの知行としてエドマンドに与えられる代わりに、ヘンリーはシチリア征服を行うことになった(7) 。

 インノケンティウス4世の死後、ヘンリーは新教皇アレクサンデル4世とシチリア征服の実行について交渉した。ここで注意しなければならないのは、シチリア遠征が十字軍に準ずるものとされたことである。ヘンリーは1250年に十字軍従軍誓願をたてており、1256年6月に出発することになっていたのだが、シチリア遠征をもって十字軍に代わるものとうけとめ、教皇に代替の確認を求めたのである。1255年これが認められると同時に、次の条件が付け加えられた(8) 。

1)教皇がシチリア征服のために負っている負債13万5541マルクをヘンリー3世が肩代りする(その不成功の際には国王の破門とイングランド全土の聖務停止)

2)十字軍従軍費にあてるため、教皇によってイングランドの教会と聖職者に課せられていた1254−56年の3年間の十分の一税(それでも不十分な場合は5年間分)を、教皇負債の償還およびシチリア遠征費にあてる

3)1256年のミクルマス(9月29日)までに遠征軍を派遣する

 しかしイングランドの貴族は、十字軍遠征のための税が単に国王の虚栄心を満足させるための「シシリアン・ビジネス」に用いられることを承知しなかった(9) 。しかも、ヘンリーが教皇に肩代りを約束した金額は膨大なもので、イングランドの財政能力では支払いは不可能であり、また遠征自体も十字軍に匹敵するほどの難事であることは明らかであった。

2012年4月15日日曜日

世界キリスト教情報


┏週刊━━━━━
┃世界
┃キリスト教
┃情報 No.1049
┗━━━━━━━
2011.2.28

 = 目 次 =
▼「平和と正義」を正面に打ち出すWCC中央委
▼既婚ドイツ人がカトリック司祭に
▼クライストチャーチの27日礼拝は屋外で
▼仏ディオールが差別発言疑惑のデザイナーを停職処分
▼ウエストボロ・バプティスト教会のサイトにハッカー攻撃
  ▼《短信》
  ▼《メディア展望》

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◎「平和と正義」を正面に打ち出すWCC中央委

 【CJC=東京】世界教会協議会(WCC)が韓国・釜山で2013年10月に開催する第10回総会の主題を「生命の神よ、わたしたちを正義と平和に導きたまえ」(仮訳)と決めた。ジュネーブで2月16日から22日まで開催した中央委員会で決定した。
 この主題は単なるスローガンやモットーではなく、大会での神学的検討、礼拝、黙想などで常に取り上げられるもの。
 2006年2月にブラジルのポルトアレグレで開催された第9回大会の主題は「神よ、その恵みと共に、世界を転換したまえ」だった。
 今回の主題は、イザヤ書42・1~4の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(新共同訳)による。
 第10回大会の主題は、企画委員会から原案が2点提案されていた。もう1点は「神の世界にあって、一つとなるべく召されて」だったという。
 審議の過程で、正義・平和・生命の強調と、一致とを結び付けようとする提案も出された。
 オラフ・フィクセ=トゥヴェイト総幹事も「正義と平和を探求することが一致への召しであり、そのように明確に解釈すべきだ」と主張した。
 フィリピン独立教会のカルメンシータ・カラダグ委員は、「正義」だけでなく「平和」もこれまでの大会では「主題」に取り上げられなかった、と指摘した。
 結局、「生命の神よ、わたしたちを正義と平和に導きたまえ」が総意として採択された。英語以外での主題表現は、大会開催地の韓国語を始め、これから準備される。
 中央委員で大会企画委員でもあるシリア正教会アンテオケと全東方総主教座のモル・エウスタッティウス・マッタ・ロハム府主教は「全世界に語り掛けるのだ。主題は様々な場所で、キリスト者によって、また非キリスト者によって読み上げられる。あらゆる言語で主題が明確に述べられることを確実なものとしなければならない」と語った。□

※写真=ジュネーブで開催された世界教会協議会中央委(WCCのサイトから)

※関連短信
▽世界教会協議会(WCC)中央委員は、ジェンダー・ジャスティス問題にエキュメニカル運動がどう取り組むか、新しい展望を開けるか、難題に直面している。女性聖職についても、加盟教会の中で女性聖職を認めないところがある。

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◎既婚ドイツ人がカトリック司祭に

2012年4月14日土曜日

神秘劇 - Wikipedia


神秘劇(しんぴげき、Mystery plays)または奇跡劇(奇蹟劇、Miracle plays)は、中世ヨーロッパで発達した演劇のこと。中世の神秘劇はアンティフォナの歌を伴う活人画として、もっぱら教会で聖書の物語を表現した。10世紀から16世紀にかけて発展を見せ、とくに15世紀にその人気は頂点に達した。しかし、その後はプロ演劇の台頭により時代遅れになってしまった。

神秘劇は、典礼文のテキストを装飾した簡単なトロープスとして始まり、徐々に精巧になり、やがて典礼劇に発展した。典礼劇の人気が増し、その土地土地の独自の形式が現れ、中世の後期には、旅役者一座や地方の共同体が組織した劇団が一般的になった。

典礼劇の中で最も良く知られているのは『だれを探しているのか(クエム・クエリティス、Quem Quaeritis?)』で、これはキリストの墓の前でいなくなったキリストを捜す3人のマリア(イエスの母マリア、マグダラのマリア、マルタの妹マリア)とそこに現れた天使との典礼の台詞を劇化したものである。典礼劇は後には台詞と演劇的な動きが付加され洗練されていった。最終的に、典礼劇は教会の外、教会の庭や市場へ上演の場を移した。典礼劇はラテン語で演じられたが、開演の前に、前説役がその土地の言葉で物語のあらすじを読んで聴かせるプロローグがついていた。

1210年に、法王は聖職者が公衆の前で演じるのを禁じた。こうして劇の組織は町のギルドに引き継がれ、その後、様々な変化が生じた。ラテン語は土地土地の言葉に置き換えられ、聖書の一節ではないものが滑稽なシーンとともに付け加えられた。演技と性格付けはより洗練されたものになった。

ヨークのようなイングランドのいくつかの大都市で、その土地土地の宗教的パフォーマンスがギルドおよび、聖書の中の特定の箇所に関係のあるギルドによって上演された。ギルドが管理しだしてから、ラテン語のmysteriumに由来するmystery playまたはmysteriesという言葉が生まれた。