ノルマンのルッジェロ2世によって1130年建国されたシチリア王国は12世紀末、婚姻によって皇帝ハインリヒ6世の手に渡り、シュタウフェン家と結びつけられた。そしてその子フリードリヒ2世はシチリアを中央集権的な官僚国家につくりあげ、この王国を中心としてイタリア支配を実現しようとしていた。教皇が政治的独立を守るためにこれに激しく抵抗したことはすでに述べた。
ここで重要なのは、教皇がシチリア王国に対する宗主権を主張していたことである。その根拠は、ルッジェロ2世の戴冠やフリードリヒのシチリア王国相続が教皇の承認を経て行われたということにあった(4) 。したがってこの説によれば、教皇とフリードリヒ2世は封主・封臣という関係でもあり、法的には教皇は王国をフリードリヒから取り上げる権利を有することになる。実際、インノケンティウス4世は1245年にフリードリヒの廃位を宣言していた(5) 。もちろん、これを実行に移すことは皇帝の生前は事実上不可能であった。
フリードリヒが1250年に死ぬと、インノケンティウス4世はこれを好機と考え、シチリア奪回にむけて動き出したが、やはり独力では無理であった。フリードリヒ2世の後継者コンラート4世が1251年、ドイツからイタリアに入り、シチリア王国の支配を固めたからである。1254年にコンラートが幼少の嗣子コンラディンを残して死んだ後も、フリードリヒ2世の庶子マンフレディがドイツ軍団とムスリム軍団を掌握し王国を平定した。その後、マンフレディは全イタリアを支配するほどの勢いを示し、教皇はシチリア奪回どころか教皇領の支配すら脅かされる状態となったのである。
ここに至り、教皇は当初の教皇領編入という方針を断念し、そのかわり、コントロールが効く外国君主にシチリア王冠を授け、シュタウフェン家征討を依頼することを企図した。
その要請に対し最初に応えたのはイングランド王ヘンリー3世であった。イングランドはジョン王以来、教皇の封建家臣の地位におかれており、ヘンリー3世自身も敬虔な人物で教皇に対して従順であったためである(6) 。1253年にインノケンティウス4世は最初にヘンリー3世の弟のコーンウォール伯リチャードと交渉したが拒否された。そのかわりにヘンリーは若干9才の末子エドマンドを推し、その結果シチリア王国は教皇からの知行としてエドマンドに与えられる代わりに、ヘンリーはシチリア征服を行うことになった(7) 。
インノケンティウス4世の死後、ヘンリーは新教皇アレクサンデル4世とシチリア征服の実行について交渉した。ここで注意しなければならないのは、シチリア遠征が十字軍に準ずるものとされたことである。ヘンリーは1250年に十字軍従軍誓願をたてており、1256年6月に出発することになっていたのだが、シチリア遠征をもって十字軍に代わるものとうけとめ、教皇に代替の確認を求めたのである。1255年これが認められると同時に、次の条件が付け加えられた(8) 。
1)教皇がシチリア征服のために負っている負債13万5541マルクをヘンリー3世が肩代りする(その不成功の際には国王の破門とイングランド全土の聖務停止)
2)十字軍従軍費にあてるため、教皇によってイングランドの教会と聖職者に課せられていた1254−56年の3年間の十分の一税(それでも不十分な場合は5年間分)を、教皇負債の償還およびシチリア遠征費にあてる
3)1256年のミクルマス(9月29日)までに遠征軍を派遣する
しかしイングランドの貴族は、十字軍遠征のための税が単に国王の虚栄心を満足させるための「シシリアン・ビジネス」に用いられることを承知しなかった(9) 。しかも、ヘンリーが教皇に肩代りを約束した金額は膨大なもので、イングランドの財政能力では支払いは不可能であり、また遠征自体も十字軍に匹敵するほどの難事であることは明らかであった。
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