1. 日本文化のネオテニー的性格
ウーパールーパーのように、幼生の特徴を残したまま成体になる個体を、生物学ではネオテニーと呼んでいる。日本という国は、経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる[n]。
[n] 生物学者や人類学者によれば、全人類の中ではモンゴロイドが、全類人猿の中ではヒトが、最もネオテニーの特徴を持つとのことである。だから、ネオテニーとして特徴づけることは、必ずしも貶めることにはならない。
これまで、日本文化の特殊性について様々な議論がなされてきたが、以下、代表的な古典的見解を取り上げて、それらがすべて、ネオテニーの属性(幼児性)であることを確認しよう。
中根千枝は、『タテ社会の人間関係』の中で、日本の社会をタテ社会として特徴付け、欧米型のヨコ社会と対比した。「あなたの職業は?」と聞かれて、例えば「システム・エンジニアです」と答える社会はヨコ社会で、「松下の社員です」と答える社会はタテ社会である。日本では、スペシャリストが複数の会社を相手に才能を売り歩くという雇用形態よりも、一つの会社に定年まで所属して、様々なポジションをこなすという雇用形態のほうが主流である。少なくともこの本が出版された1977年ごろまでは、日本は完全なタテ社会だった。
中根が注意を促しているように、タテ社会にヨコの関係がないわけではない。「場」による集団内部に限定されたヨコの関係ならある。だから、中根が言う「タテ社会」とは、「ウチ」と「ソト」の区別にこだわる「ウチ社会」である。「ウチ社会」は、「ウチ」という言葉が示しているように、家をモデルにした社会である。
どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。戦前の日本政府は、国"家"を、天皇を家長とする家族に喩えた。戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。
ルース・ベネディクトは、『菊と刀(The Chrysanthemum And the Sword)』で、恩を着せられることによる義理が、日本人の意識を強く制約していることを指摘した。こうした互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。個体発生と系統発生とを対応させるならば、互酬性社会は、母子の間の、水平的な交換関係を機軸とする鏡像段階に相当する。この段階は、父という超越的第三者(コミュニケーション・メディア)によって、垂直的に交換が媒介されていないという意味で、プリミティブなのである。
『菊と刀』は、日本の文化と欧米の文化の違いを「恥の文化」と「罪の文化」の違いとして説明したことでも有名である。日本の経営者が「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」と言って辞職するのは、日本の文化が恥の文化だからである。罪の文化の視点からすれば、罪がないのなら辞職する必要はないということになるが、恥の文化の視点からすれば、世間を騒がせて恥ずかしいということが、引っ込む口実として認められる。
恥とは、他者という鏡に映し出された醜い自我に対する不安の感情である。その際、醜いかどうかに普遍的な基準はない。周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。
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