2012年4月30日月曜日


まいど!第16回AT通信のお時間です。
そろそろ木々の葉が色付く鮮やかな季節がやってきますね。

AT通信も第16回ということで、皆様にお伝えしたい内容を、
色々(イロイロ=1616)取り揃えております!(*´艸`)

■レベルキャップ解放&新装備
高レベルプレイヤーの皆さん、お待たせしました!
レベルキャップの解放により、最高Lvが150となります。
レベルキャップが解放されるということは、
昇級や、スキルのLvなども上限が解放されるということになりますね。
更なる高みを目指して精進しましょう!

また、レベルキャップの解放に合わせて、
Lv141から装備可能な「ペガサス装備」が導入されます。
ここで、ペガサス装備の一部をご紹介。ヾ(・ω・*)ノ

チラっ

チラチラっ

な、なんて美しいのでしょう…(*´Д`)。*

レベルキャップの解放&新装備に乞うご期待下さい!

■アフリカ大陸導入
新 大 陸 導 入 !

多くの野生動物が生存する雄大な土地

豊かな自然が拡がる大地

人々が敬い、崇めている精霊とは…

2012年4月29日日曜日


発祥の地、メキシコではレプハドと呼ばれています

「メタルエンボッシングアート」は、古代ローマ帝国占領下のイギリスで錫工芸として発祥しました。 錫工芸は身の回りの道具や日常品に多く見られ、世界中で何世紀もの間作られ使われてきました。

中世ヨーロッパ諸国でキリスト教のイコン制作に使われる事により、新しく素晴らしい局面を迎えました。
キリスト教の崇拝や教訓を目的としたイコンは、木製品に宗教的で少し恐ろしいイメージで描かれていました。
人々はそのイコンに次第に金や銀などで装飾を施すようになっていきます。

それは、教会で人々がペイントされているイコンを触ることによる劣化を防ぎ、キャンドルの煙や外部の埃から表面を保護する意味もありました。
聖母と幼子の顔だけを残して、その他をメタルで作るスタイルのイコン制作が盛んに行われるようになりました。

現在、イコンは宗教的な意味だけではなく、歴史的かつアート的な価値を求めてコレクター間では大変な人気を博しています。

2012年4月28日土曜日


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2012年4月26日木曜日


パレスチナ問題の中のイスラム

 

パレスチナ問題の中のイスラム

 

講師 東京大学教授

長沢 栄治 

平成17年10月11日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 



◆内容目次

パレスチナ問題の現在

パレスチナ問題と政治的イスラムの関係

パレスチナ問題は宗教的問題ではない

パレスチナの現状、基本構造、本題、展望

現状と歴史の重み

アラファトの死と今後

オスロ合意とその後

ガザ地区

オスロ合意破綻以降

キャンプデービット会談決裂以降

停戦合意という転換点

シャロンの政策の背景

人口比の問題

オスロ合意失敗の原因

日本のかかわり

パレスチナ問題の基本的な構造

もしパレスチナ問題がなければ…

石油をめぐる争い

西欧近代的な国民国家となじまないイスラム世界?

イスラムの暴力と結びつく中東の政治

パレスチナ問題の長い歴史

問題の起源

民族的郷土

イギリスからアメリカへ

パレスチナ問題と現代中東政治

パレスチナ問題の衝撃

嘆きの壁事件

アラブ大反乱と民族運動の急進化

急進的、民族的政権の成立

パレスチナ問題とアラブ世界の民主主義

冷戦とパレスチナ問題

パレスチナ問題の宗教化

転機1:第三次中東戦争

転機2:イラン革命

転機3:占領下パレスチナ人の決起

自爆事件の頻発

講師略歴


パレスチナ問題の現在

 ただいまご紹介いただきましたように、私は東京大学に来る前はアジア経済研究所に勤務しておりました。今回のフォーラムの講演者の中では、酒井さんが私の同僚でした。そもそも私が中東を研究するようになったのは、第一次石油ショックの影響です。その頃就職していたアジア経済研究所で中東研究のプロジェクトを立ち上げていたので、アラビア語を勉強し、中東を研究するようになったのです。その後30年近くやっています。

 フィールドとしてはエジプトが中心で、そこから現代アラブの研究へと広めてまいりました。ということで、私はパレスチナ問題ウォッチングを行なう、すなわち毎日、新聞のニュースを継続的に分析する専門家ではないということを最初にお断りしておかなければいけません。今回は、アラブ研究の立場から、パレスチナ問題が中東やアラブ世界、さらには現代の世界を考える上でどういう意味を持つのかという問題の広がりをお話するのが狙いです。

パレスチナ問題と政治的イスラムの関係

 パレスチナ問題は非常に複雑な問題です。複雑過ぎて一言で言うのは難しいのです。関与する政治勢力だけを見ても、アラブとイスラエルだけでもそれぞれ右から左まで、穏健派から急進派まで、さまざまです。しかもその相互の関係も難しいし、それをどう分析するかも難しい。さらにそれを取り巻くアメリカやヨーロッパ諸国、さらにイスラム諸国との関係など、さまざまな要素やアクターの分析が必要であり、パレスチナ問題は、まるでこんがらがった糸のように見えるのではないかと思います。

 その中で一際鮮やかに見えるのが「イスラム」という糸です。日頃パレスチナ問題とか中東問題に接していると、絡まりあった毛糸の玉の中に一際鮮やかに見えるのが、イスラムの問題なのです。

 今回のフォーラムのテーマは「イスラム」であり、「パレスチナ問題の中のイスラム」というタイトルも、今回のフォーラム全体の企画の責任者である一橋大学の加藤先生がお付けになったもので、私としては、パレスチナ問題の中のイスラムというより、パレスチナ問題の現在を考えること、とくに「パレスチナ問題と政治的イスラムの関係」についてお話ししたいと思います。

パレスチナ問題は宗教的問題ではない

 パレスチナ問題では、イスラムが宗教的問題ではなく、政治的問題として現れてくるのです。それがどういう関係にあるか、両者の関係をお話します。

 パレスチナ問題について、「イスラムという宗教が原因である」という誤解がしばしばあります。一方にユダヤ教があって、一方にイスラム教があり、その宗教の対立からパレスチナ問題が出てきたという誤解です。きつい言い方をすると、そういう嘘の情報を意図的に流して拡大している傾向があります。先ほどパレスチナ問題はこんがらがった毛糸の玉のように見えると言いましたけれども、問題をすっきり説明するために「宗教的な側面で説明してしまおう」という考え方もたしかにあります。

 しかし私は、パレスチナ問題は、本来的には「中東で起きた宗教的な問題ではない」と思います。しかし、さまざまな経緯の中で、それが宗教と結びついてきました。さらには、パレスチナ問題がイスラム化して、ますます解決が困難な状況になってきた経緯をお話すると同時に、それがもたらした背景は一体どこにあるのかを考えてみたいと思います。

パレスチナの現状、基本構造、本題、展望

 お話のポイントの1つは、パレスチナ問題が中東という地域の文脈の中で持つ意味についてです。そして中東からさらに広がった国際政治という文脈という、幾つかの違ったレベルの中で、もともと宗教的な問題ではなかったパレスチナ問題がイスラムとの結びつきをより強めてきた過程をお話することになります。

 話の流れとしては、パレスチナ問題が今どういう状況にあるかという現状について話します。2番目には、パレスチナ問題の基本的な構造が一体どういうものかについて、私の理解をお示ししたいと思います。パレスチナ問題には立場によっていろんな解釈がありますが、なるべくすっきりと解釈するポイントはないかということでお話してみます。次が本論となり、そういったパレスチナ問題がどうしてイスラム化し、宗教化したかというお話をして、最後に展望ということで、今後どうなっていくかを考えてみたいと思います。

現状と歴史の重み

 先ずパレスチナ問題は、現在どんな状況にあるのかを考えてみましょう。パレスチナ問題がこのような状況となり、非常に深刻化したのは、1948年のイスラエルが独立した第一次中東戦争から始まっています。イスラエルという国で出来て、多くのパレスチナ難民が生まれましたが、そこからパレスチナ問題が非常に深刻化していきました。パレスチナ問題はそれ以前からもありましたが、国際政治の大きな問題となってきたのは1948年以降なのです。

 それから数えると57年くらいたっているわけです。日本の敗戦からが60年ですから、第二次大戦直後に起きた戦争というわけです。戦争中の疎開児童の方々がもういまは高齢になられていると同様、48年時代当時に難民として追い出された若い人達も、いまやかなりの年になっています。この57年の歴史は非常に重いのもがあります。今や第2世代、第3世代、第4世代の人がパレスチナ問題とさまざまな関わりを持っているわけです。家族代々引き続いてパレスチナ問題を背負い暮らしている人がたくさんいるということです。これは非常に大きな問題です。

 一方イスラエルという国が出来てからすでに57年たっていますが、この問題も非常に大きなものがあります。長らくパレスチナ人を中心として、アラブの人たちはイスラエルの存在を認めず、こんな国がなくなればいい、ヨーロッパからやってきたユダヤ人はもともと住んでいたところに帰ればいいのだと思う人は今でも一杯いるのです。しかし、国家が50年以上続いているという現実は、非常に重いものがあります。これは、難民として50年以上暮らしているという歴史が重いのと同様です。一度できた国家の枠組みを壊すことがはたしてできるのかという問題の重みは非常に大きいのです。

 十字軍の時代、かつてヨーロッパからキリスト教徒がやって来て、100年以上続くキリスト教の王国をつくったことがありますが、それと同様に、イスラエルという国も100年、200年経てばいつかなくなってしまうのだという人がいます。こういう人たちは、「5世代、6世代、7世代後には、我々はパレスチナを取り戻すのだ」と言っています。こういう言い方も話としてはありえますし、実際200年、300年後のことは分かりません。しかし、現在の世界の状況を考える限り、イスラエル国家が50年以上続いている歴史の重みを考えなければいけないのです。その重みを考えた上で、アラブ側もパレスチナ問題が今後どうなっていくかということを真剣に考えなければいけないと思うわけです。この「歴史の重み」 というのが大きな点だと思います。

アラファトの死と今後

 昨年11月にパレスチナ解放運動を率いていたアラファト議長が亡くなりました。彼については、晩節を汚したという形で、日本や欧米のマスコミでも、財産を猫ばばしたとか、奥さんがお金持ちでどうのこうのとか、意図的な情報が流れたことが記憶に残ります。たしかにそういう形の厳しい批判にさらされる理由は十分にありましたが、しかしアラファトがパレスチナ建国の父という立場をずっと守ってきたことは重要な事実として評価しなくてはいけません。ただし結局、パレスチナという国をつくることができないまま亡くなったのですが。

 彼は1929年の生まれとも言われていますが、この点についてはいろんな説があって分かりませんが、ともかくもう高齢でした。そして彼が代表する、60年代半ばくらいにパレスチナ解放運動、ゲリラ闘争によってパレスチナ奪還を目指すことを考えた革命世代の人たちも、いまや引退する時期になっています。現在のマフムード・アッバース・パレスチナ政庁首長(大統領と訳してもいいのかもしれません)も、アラファトの世代の一番下に属する人です。

 そういう意味で、今はこれから新しい世代が国づくりを担っていく大きな節目を迎えている時代と言っていいと思います。この60年近い歴史の流れの中で、一体これからどういう勢力がパレスチナの国づくりの方向を目指していくのかは、まさに大きな問題になってきます。

2012年4月25日水曜日


大工の聖ヤコブと幼子キリストを描いたこの絵が大好きで、高校の時に油彩で模写しました。どうすればこのように透明感溢れる(蝋燭の火に透ける幼子イエスの手)絵が描けるのかとずっと考えては描いて絵と格闘していました。
この絵からカラバッジオ、フェルメール、ファン・アイク(ヴァン・ダイク)レンブラントへと広がっていきました。そして最後にたどり着いたのが「ダ・ヴィンチ」と「北斎」でした。

                           〜大目付〜

RE: ラトゥール

> 大工の聖ヤコブと幼子キリストを描いたこの絵が大好きで、高校の時に油彩で模写しました。どうすればこのように透明感溢れる(蝋燭の火に透ける幼子イエスの手)絵が描けるのかとずっと考えては描いて絵と格闘していました。
> この絵からカラバッジオ、フェルメール、ファン・アイク(ヴァン・ダイク)レンブラントへと広がっていきました。そして最後にたどり着いたのが「ダ・ヴィンチ」と「北斎」でした。
>
>
>                            〜大目付〜

大目付さん、タイトルのモーリス・カンタン・ドラトゥールは、
フランス・ロココの画家のことでしたか〜?

でも、話題は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールですよね??!!

大目付さんはこの絵を模写されたことがあるんですね!

バロックの 絵画、音楽、建築・・ はとても劇的ですよね〜。
最近は、(私は)ルネサンス以前の美術の方が好みですが・・
バロックより見ていて癒されます^^;

※ところで、大目付さんの大塚国際美術館を拝見したんのですが・・、
(大目付さんのところでいきなり書くのも悪いのでここで書きます・・)
ジオット × → フラ・アンジェリコ「受胎告知」
ボッシュ「最後の審判」× → シュテファン・ロッホナー「最後の審判」

ボッシュ × → ブリューゲル「死の勝利」  ですね〜〜。
「最後の審判」は同じフランドルのメムリンクっぽく感じましたが・・。

失礼致しました・・・。。。

    wiz

RE: RE: ラトゥール

>
> 大目付さん、タイトルのモーリス・カンタン・ドラトゥールは、
> でも、話題は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールですよね??!!

★済みません、大間違いでした。ジョルジュ・ド・ラトゥールでした。

> 大目付さんはこの絵を模写されたことがあるんですね!

★はい、高校生の時美術部に属していました。その時自宅で描いていました。

> バロックの 絵画、音楽、建築・・ はとても劇的ですよね〜。
> 最近は、(私は)ルネサンス以前の美術の方が好みですが・・
> バロックより見ていて癒されます^^;

★音楽も中世からバロック頃の曲も好きです。オーボエ協奏曲、リュート曲など♪・・・。

> ※ところで、大目付さんの大塚国際美術館を拝見したんのですが・・、
> (大目付さんのところでいきなり書くのも悪いのでここで書きます・・)
> ジオット × → フラ・アンジェリコ「受胎告知」
> ボッシュ「最後の審判」× → シュテファン・ロッホナー「最後の審判」
> http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/l/lochner/index.html
> ボッシュ × → ブリューゲル「死の勝利」  ですね〜〜。
> 「最後の審判」は同じフランドルのメムリンクっぽく感じましたが・・。

★ごめんなさい。間違いであれば訂正します。それにしてもwizさんは美術のことお詳しいんですね〜。
その様な人に久しぶりにお会いした感じです。

                          〜大目付〜

私も『エディット・ピアフ』見ましたが、リジューのテレーズとは思わず
『聖女テレサの法悦』の方のテレーズだと思っていました。
wizさんのこのコメント読んで初めて知りました。
嬉しい!ありがとう!

もっとも映画を観た時点ではリジューのテレーズの存在は知らず、恥ずかしながら4トラのwaterlilyさんの旅行記の掲示板でその存在を知り、その後4トラのどなたか忘れましたがリジューの旅行記を書いていらっしゃるのを発見したのでした・・・恥^^;

いつかきっとノルマンディーを旅行しバスで途中下車してリジューを訪れたいと思います。

wizさんは最近はなかなか長い旅ができないようですが、行けない間じっと構想を練って、調べて、旅行できるようになったらそれが爆発するのではないかと楽しみにしているのですよ。

今回ルーヴルのイタリア絵画だけを見てきましたが、2時間見たのに、見落としがたくさんあったわ。
でもwizさんのおかげで『聖母戴冠』をじっくり眺められたこと、、、最高でした。

RE: リジューのテレーズ

> 私も『エディット・ピアフ』見ましたが、リジューのテレーズとは思わず
> 『聖女テレサの法悦』の方のテレーズだと思っていました。
> wizさんのこのコメント読んで初めて知りました。
> 嬉しい!ありがとう!

さすが、コクリコさん!
よくこれを見つけてくれましたね〜!
(この部分は後で書き足した部分なんです。)
私は、ブーダンの描いた絵の風景を見たくて行った
 Trouville の行き帰りにこの聖堂をリジュー駅から見たんですけど
→ 
そのときは、私の中でもエディット・ピアフとは繋がってなかったんです!

> もっとも映画を観た時点ではリジューのテレーズの存在は知らず、恥ずかしながら4トラのwaterlilyさんの旅行記の掲示板でその存在を知り、その後4トラのどなたか忘れましたがリジューの旅行記を書いていらっしゃるのを発見したのでした・・・恥^^;
> いつかきっとノルマンディーを旅行しバスで途中下車してリジューを訪れたいと思います。

Oui! それは私がお気に入りにしているMikaさんの旅行記です〜。
(最近またようやく4travel旅行記訪問復活して・・)
このあいだMikaさんを訪問したらコクリコさんのコメントを発見しました^^
私もMikaさんのあの聖堂の旅行記と、映画エディット・ピアフの影響で
リジューの聖堂に寄ってみたいと思うようになりました!

> wizさんは最近はなかなか長い旅ができないようですが、行けない間じっと構想を練って、調べて、旅行できるようになったらそれが爆発するのではないかと楽しみにしているのですよ。

ほんと・・ 爆発しそうですね!
流石、コクリコさん、お見通し!

> 今回ルーヴルのイタリア絵画だけを見てきましたが、2時間見たのに、見落としがたくさんあったわ。
> でもwizさんのおかげで『聖母戴冠』をじっくり眺められたこと、、、最高でした。

やっぱり見落としが出ますよね〜。
私も「あーあそこ見落とした!」というのがあります、あります!
Louvre の 素描・版画部門 も今度ちゃんと見たいと思っているのですが・・。

wiz

RE: RE: リジューのテレーズ

> (この部分は後で書き足した部分なんです。)
> 私は、ブーダンの描いた絵の風景を見たくて行った
>  Trouville の行き帰りにこの聖堂をリジュー駅から見たんですけど
> → 
> そのときは、私の中でもエディット・ピアフとは繋がってなかったんです!

そうでした!
確かこの旅行記のトゥルーヴィルまでの列車のテーブルに時刻表や地図を広げている場面を見て
「かっこいいな〜」
と思ったことや、サヴィニヤックの看板(絵?)や、ブーダンの絵との対比などは覚えているのですが、「エディット・ピアフ」の映画のコメントは覚えていないなぁと思っていたのです。
ピアフが私を呼んだのでしょうか?
今、リジューの立派な聖堂、しかと拝見しました。

> Oui! それは私がお気に入りにしているMikaさんの旅行記です〜。
> (最近またようやく4travel旅行記訪問復活して・・)
> このあいだMikaさんを訪問したらコクリコさんのコメントを発見しました^^

ヤダ、掲示板にwizさんやwaterlilyさんの名前までちゃんと書いてるじゃないの!
Mikaさんはフランスにお住まいなのですね。
異国での生活は大変なこともあると思いますが、良い点をフルに使ってあちこちを回って楽しんでいらっしゃるようですね。ベビーも誕生したようだしね。

今頃になって投票しました♪

2012年4月23日月曜日


『必読書150』は必読書か

>日本書記』

WWWWWWWWW¥UNNKO PPPPPPPP

876 :吾輩は名無しである:2009/07/19(日) 07:45:20

最強国学者の本居宣長が古事記と日本書紀は日本人の聖典と言ってんだから大人しく読んどけよ

877 :吾輩は名無しである:2009/07/19(日) 10:45:46
>>869信者じゃないが、グノーシス主義に興味があったからとりあえず通読したんだよ。
偏見でものを語るな。
878 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/07/19(日) 12:11:18
>>877
きゃははは。
馬鹿まる出しだw
グノーシスなら新約聖書だろw
グノーシスが何かもよく分からずにテキトーな後づけの言い訳屁理屈こねてやがるw
聖書を読まず、グノーシスを知らずに偏見で言い訳するから、こういう無知さらすんだよなw

やっぱりここは2ちゃんだな。
バカしかいない。

つ >日本書記』

880 :吾輩は名無しである:2009/07/19(日) 18:40:09

「中論」「唯識三十じゅ」「易経」「老子」「荘子」「伝習録」「菜根たん」「へきがん録」「無門関」「いんしつ録」「呻吟語」

旧約も読むだろ

882 :吾輩は名無しである:2009/07/20(月) 19:27:03

メリークリスマス

883 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:40:03
>>878新約、ユダ福、マリ福、ユング思想入門等も読みましたけど何か?
884 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:41:57

日本書記!日本書記!

885 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:44:15

不要陰唇バカ丸だし。きゃははははは

886 :吾輩は名無しである:2009/07/21(火) 11:48:23

陰唇丸出し。旧約聖書で一番印象深いエピソードを書いてみな。
どうせこいつは読んでないwwwww

日本では書記じゃなくて委員だよな

2012年4月22日日曜日


ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを併合、そして後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了する予定になっていたという。しかもその間、イギリス、フランスは無干渉でいるだろうと計算していたらしい。そして、ヒトラーが計画していた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」ではなく、ユダヤ人たちを東方地域へ移住させることだったという。

しかし、計算が狂ってしまった。特に1940年5月11日にイギリスの宥和派であるチェンバレン首相が解任され、チャーチル首相が登場すると、大きく計算が狂ってしまったという。

イギリスの対ヒトラー政策を、「宥和」から「全面対決」へ突然変えた男、チャーチル。彼はナチスの脅威からヨーロッパを救った平和の使者だったのか? それとも……

 


ベルヒテスガーデンにイギリスの
チェンバレン首相(中央)を迎えたヒトラー

 

ヒトラー(枢軸側)の最大支配・占領地

 


イギリスのロスチャイルド家の代理人
ウィンストン・チャーチル首相。彼の
登場とともに、ドイツの一般市民に
 対する大量爆撃が始まった。



廃墟になったドイツのドレスデン(1945年2月13日)

米英空軍の4日間にわたる徹底した無差別爆撃で、
宮殿や教会など18世紀バロック建築の建ち並ぶ
文化の街は一変、瓦礫と化した。これは
チャーチルが犯した戦争犯罪である。

 

第二次世界大戦でのヒトラーとロスチャイルド家の関係については、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)が詳しい。(以下に、該当する部分を載せておきます。参考までに)。

 


ロスチャイルド家の紋章

────────────────────────

 

── ロスチャイルド家の代理人、チャーチルの反撃 ──

 

ウィーン・ロスチャイルド家の当主ルイスが逮捕された1938年には、ドイツを離れてアメリカを訪れていたマックス・ワーバーグがとうとう帰国不能となって、さしものワーバーグ銀行が閉鎖された。次いで1939年には、大作曲家を誕生させたメンデルスゾーン商会が8月に消滅した。こうして見えないロスチャイルドの最後の牙城も、ドイツではハーケンクロイツ(カギ十字)の影に消され、一切が見えなくなった。その8月が過ぎ去ると、9月1日であった。ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。



実際には、ドイツ、イタリア、日本は、これよりはるかに前から戦争に踏み切っていた。「1939年9月1日」が世界大戦開始の日付けとされるのは、ドイツのポーランド侵攻によって、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味していた。言い換えれば、「ロスチャイルド本家がただ2ヶ所だけ残っているイギリスとフランス」が反撃の行動に移った、それが世界大戦であった。

2012年4月20日金曜日


澤田豊成神父のそよかぜカレンダー

(マタイ18・21-35)

 聖パトリック司教の記念日は3月17日。日本の教会の典礼暦では、長崎の信徒発見記念日と同じ日にあたります。

 アイルランドの教会の保護者である聖パトリックは、390年ごろ、現在のイギリスで生まれました。この聖人の生涯については、多くの伝承物語が残されていますが、歴史的に検証可能な要素はそれほど多くありません。亡くなった場所や年も明確ではありません(おそらく461年?)。しかし、聖パトリックのものとされる著作をとおして、ある程度の略歴を知ることは可能です。

 パトリックの生まれ育った町は、海に面していたようです。彼は、16歳のとき、アイルランドの海賊集団によって連れ去られ、奴隷として売られ、アイルランドで働かされます。この「事件」によって、パトリックは勉学を� �断せざるをえず、そのため、後に司教になってから学力、特にラテン語の語学力の不十分さを絶えず批判されることになります。

 パトリック自身の言葉によれば、奴隷の境遇に追いやられるまでは、彼はさほど熱心な信仰を持っていたわけではないようです。しかし、一日中、動物の世話をしながら、次第に神の愛に突き動かされるようになり、朝夕を問わず祈り、また熱心に働くようになりました。

 ある夜、パトリックは幻を見、彼を祖国へ連れ帰ってくれる船が港に停泊していることを告げられます。彼は、すぐさま逃亡を試み、320キロにもわたる逃走の末、アイルランドの軍船に乗り、困難の末に祖国に戻ることができました。その後、宣教のため再びアイルランドに渡るまでの約20年間、パトリックがどこで勉強を� �、司祭に叙階されたのかははっきりしていません。現在のイギリス、現在のフランス、ローマなどさまざまな説があります。いずれにせよ、パトリックは432年に司教としてアイルランドに向かいます。

2012年4月19日木曜日


  昔まだパソコンではなくワープロを使っていた頃(ほんの3、4年ほど前までワープロを使っていたのです)のフロッピーを整理していたら、懐かしい原稿が出てきました。ある事情があって書いていたものですが、捨てるのには惜しい。そこで映画を観なかった日の埋め草にすることを思いつき、パソコンに取り込みました。
 イギリス小説の単なる紹介記事で、大した内容ではありません。ただ最近でも「オリバー・ツイスト」や「プライドと偏見」などイギリス小説の映画化は連綿と続いていますので、何かの参考にはなるでしょう。毎週1作を取り上げていたので、当時は非常につらかった。単行本を1週間で1冊読み上げ(もちろん翻訳です)、おまけに紹介文まで書いていたのだから当然ですが。幅広い人に読んでいただけたら当時の苦労も報われます。

【ヴィクトリア時代】
・ヴィクトリア時代(1837-1901)
  ヴィクトリア女王はわずか18歳で即位。英国史上最も輝かしい栄光の時代。

ヴィクトリア時代とは、いうまでもなくヴィクトリア女王が在位した時代のことで、1837年から1901年までの65年間を指す。ヴィクトリア初期(1837-50)、ヴィクトリア中期(1850-70年代)、ヴィクトリア後期(1870年代ー1901)の三期に分けて考えるのが一般的である。
 19世紀のイギリス史は、1870年代を境に大きく二分して考えることができる。1870年代以前は、世界に先駆けて産業革命をなしとげた工業国イギリスが世界の霸者となる躍進期であり、1870年代以降は、いわゆる「帝国主義」の時代で、それ以前が躍進期であるのなら、この時期は、イギリスの今日にまでいたる後退期の始まりであった。
 従来の通説は、産業革命の進展とそれにもとづくブルジョワ階級の発展を歴史叙述の機軸としていたが、その場合ややもすれば、ブルジョワ階級の経済力の増大をそのままかれらの政治支配権の増大と同一視する傾向があった。しかしながら、このさい、われわれもまたはっきり留意しておかなければならないのは、第一次選挙法改正と穀物法撤廃という画期的事件のあとに到来した1850-70年代のヴィクトリア中期においてさえも、上下両院をはじめとする全イギリスの政治機構は、なお地主階級によってほぼ完全に掌握されていたという事実であって・・・政治的な支配体制という見地からすれば、1870年代までイギリスは地主階級による貴族政の国家だった・・・。

 1832年の選挙法改正と1846年の穀物法廃止の最たる史的意義が、それぞれブルジョア階級への参政権付与と自由貿易の実質的な確立にあることはすでに周知のところである。
 一方労働者階級の運動についてみれば、まず19世紀の前半はまさしくイギリス労働者階級の英雄時代であった。ラダイト運動、オーエン主義、労働組合主義、政治的チャーティズムと様々な運動が起こったが、伝統的な地主・貴族階級がブルジョワ階級と手を結んだとき、これと対抗するのには結局のところあまりにも非力であった。したがって、ピータールー事件に始まり、第一次選挙法改正の運動、全国労働組合大連合をへて新救貧法反対闘争からチャーティズムへといたる敗北の歴史は、労働運動の歴史は、これを遺憾なく物語っているといえる。
   参考文献:村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』(ミネルヴァ書房:1980年)

2012年4月17日火曜日


 ノルマンのルッジェロ2世によって1130年建国されたシチリア王国は12世紀末、婚姻によって皇帝ハインリヒ6世の手に渡り、シュタウフェン家と結びつけられた。そしてその子フリードリヒ2世はシチリアを中央集権的な官僚国家につくりあげ、この王国を中心としてイタリア支配を実現しようとしていた。教皇が政治的独立を守るためにこれに激しく抵抗したことはすでに述べた。

 ここで重要なのは、教皇がシチリア王国に対する宗主権を主張していたことである。その根拠は、ルッジェロ2世の戴冠やフリードリヒのシチリア王国相続が教皇の承認を経て行われたということにあった(4) 。したがってこの説によれば、教皇とフリードリヒ2世は封主・封臣という関係でもあり、法的には教皇は王国をフリードリヒから取り上げる権利を有することになる。実際、インノケンティウス4世は1245年にフリードリヒの廃位を宣言していた(5) 。もちろん、これを実行に移すことは皇帝の生前は事実上不可能であった。

 フリードリヒが1250年に死ぬと、インノケンティウス4世はこれを好機と考え、シチリア奪回にむけて動き出したが、やはり独力では無理であった。フリードリヒ2世の後継者コンラート4世が1251年、ドイツからイタリアに入り、シチリア王国の支配を固めたからである。1254年にコンラートが幼少の嗣子コンラディンを残して死んだ後も、フリードリヒ2世の庶子マンフレディがドイツ軍団とムスリム軍団を掌握し王国を平定した。その後、マンフレディは全イタリアを支配するほどの勢いを示し、教皇はシチリア奪回どころか教皇領の支配すら脅かされる状態となったのである。

 ここに至り、教皇は当初の教皇領編入という方針を断念し、そのかわり、コントロールが効く外国君主にシチリア王冠を授け、シュタウフェン家征討を依頼することを企図した。

 その要請に対し最初に応えたのはイングランド王ヘンリー3世であった。イングランドはジョン王以来、教皇の封建家臣の地位におかれており、ヘンリー3世自身も敬虔な人物で教皇に対して従順であったためである(6) 。1253年にインノケンティウス4世は最初にヘンリー3世の弟のコーンウォール伯リチャードと交渉したが拒否された。そのかわりにヘンリーは若干9才の末子エドマンドを推し、その結果シチリア王国は教皇からの知行としてエドマンドに与えられる代わりに、ヘンリーはシチリア征服を行うことになった(7) 。

 インノケンティウス4世の死後、ヘンリーは新教皇アレクサンデル4世とシチリア征服の実行について交渉した。ここで注意しなければならないのは、シチリア遠征が十字軍に準ずるものとされたことである。ヘンリーは1250年に十字軍従軍誓願をたてており、1256年6月に出発することになっていたのだが、シチリア遠征をもって十字軍に代わるものとうけとめ、教皇に代替の確認を求めたのである。1255年これが認められると同時に、次の条件が付け加えられた(8) 。

1)教皇がシチリア征服のために負っている負債13万5541マルクをヘンリー3世が肩代りする(その不成功の際には国王の破門とイングランド全土の聖務停止)

2)十字軍従軍費にあてるため、教皇によってイングランドの教会と聖職者に課せられていた1254−56年の3年間の十分の一税(それでも不十分な場合は5年間分)を、教皇負債の償還およびシチリア遠征費にあてる

3)1256年のミクルマス(9月29日)までに遠征軍を派遣する

 しかしイングランドの貴族は、十字軍遠征のための税が単に国王の虚栄心を満足させるための「シシリアン・ビジネス」に用いられることを承知しなかった(9) 。しかも、ヘンリーが教皇に肩代りを約束した金額は膨大なもので、イングランドの財政能力では支払いは不可能であり、また遠征自体も十字軍に匹敵するほどの難事であることは明らかであった。

2012年4月15日日曜日


┏週刊━━━━━
┃世界
┃キリスト教
┃情報 No.1049
┗━━━━━━━
2011.2.28

 = 目 次 =
▼「平和と正義」を正面に打ち出すWCC中央委
▼既婚ドイツ人がカトリック司祭に
▼クライストチャーチの27日礼拝は屋外で
▼仏ディオールが差別発言疑惑のデザイナーを停職処分
▼ウエストボロ・バプティスト教会のサイトにハッカー攻撃
  ▼《短信》
  ▼《メディア展望》

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◎「平和と正義」を正面に打ち出すWCC中央委

 【CJC=東京】世界教会協議会(WCC)が韓国・釜山で2013年10月に開催する第10回総会の主題を「生命の神よ、わたしたちを正義と平和に導きたまえ」(仮訳)と決めた。ジュネーブで2月16日から22日まで開催した中央委員会で決定した。
 この主題は単なるスローガンやモットーではなく、大会での神学的検討、礼拝、黙想などで常に取り上げられるもの。
 2006年2月にブラジルのポルトアレグレで開催された第9回大会の主題は「神よ、その恵みと共に、世界を転換したまえ」だった。
 今回の主題は、イザヤ書42・1~4の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(新共同訳)による。
 第10回大会の主題は、企画委員会から原案が2点提案されていた。もう1点は「神の世界にあって、一つとなるべく召されて」だったという。
 審議の過程で、正義・平和・生命の強調と、一致とを結び付けようとする提案も出された。
 オラフ・フィクセ=トゥヴェイト総幹事も「正義と平和を探求することが一致への召しであり、そのように明確に解釈すべきだ」と主張した。
 フィリピン独立教会のカルメンシータ・カラダグ委員は、「正義」だけでなく「平和」もこれまでの大会では「主題」に取り上げられなかった、と指摘した。
 結局、「生命の神よ、わたしたちを正義と平和に導きたまえ」が総意として採択された。英語以外での主題表現は、大会開催地の韓国語を始め、これから準備される。
 中央委員で大会企画委員でもあるシリア正教会アンテオケと全東方総主教座のモル・エウスタッティウス・マッタ・ロハム府主教は「全世界に語り掛けるのだ。主題は様々な場所で、キリスト者によって、また非キリスト者によって読み上げられる。あらゆる言語で主題が明確に述べられることを確実なものとしなければならない」と語った。□

※写真=ジュネーブで開催された世界教会協議会中央委(WCCのサイトから)

※関連短信
▽世界教会協議会(WCC)中央委員は、ジェンダー・ジャスティス問題にエキュメニカル運動がどう取り組むか、新しい展望を開けるか、難題に直面している。女性聖職についても、加盟教会の中で女性聖職を認めないところがある。

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◎既婚ドイツ人がカトリック司祭に

2012年4月14日土曜日


神秘劇(しんぴげき、Mystery plays)または奇跡劇奇蹟劇Miracle plays)は、中世ヨーロッパで発達した演劇のこと。中世の神秘劇はアンティフォナの歌を伴う活人画として、もっぱら教会で聖書の物語を表現した。10世紀から16世紀にかけて発展を見せ、とくに15世紀にその人気は頂点に達した。しかし、その後はプロ演劇の台頭により時代遅れになってしまった。

神秘劇は、典礼文のテキストを装飾した簡単なトロープスとして始まり、徐々に精巧になり、やがて典礼劇に発展した。典礼劇の人気が増し、その土地土地の独自の形式が現れ、中世の後期には、旅役者一座や地方の共同体が組織した劇団が一般的になった。

典礼劇の中で最も良く知られているのは『だれを探しているのか(クエム・クエリティス、Quem Quaeritis?)』で、これはキリストの墓の前でいなくなったキリストを捜す3人のマリア(イエスの母マリア、マグダラのマリア、マルタの妹マリア)とそこに現れた天使との典礼の台詞を劇化したものである。典礼劇は後には台詞と演劇的な動きが付加され洗練されていった。最終的に、典礼劇は教会の外、教会の庭や市場へ上演の場を移した。典礼劇はラテン語で演じられたが、開演の前に、前説役がその土地の言葉で物語のあらすじを読んで聴かせるプロローグがついていた。

1210年に、法王は聖職者が公衆の前で演じるのを禁じた。こうして劇の組織は町のギルドに引き継がれ、その後、様々な変化が生じた。ラテン語は土地土地の言葉に置き換えられ、聖書の一節ではないものが滑稽なシーンとともに付け加えられた。演技と性格付けはより洗練されたものになった。

ヨークのようなイングランドのいくつかの大都市で、その土地土地の宗教的パフォーマンスがギルドおよび、聖書の中の特定の箇所に関係のあるギルドによって上演された。ギルドが管理しだしてから、ラテン語のmysteriumに由来するmystery playまたはmysteriesという言葉が生まれた。

2012年4月12日木曜日


一般的にはどうなのかわからないが、少なくとも僕はこの前の『At Budokan』までを「70年代までのディラン」、そしてここでとりあげる『Slow Train Coming』からを「80年代以降のディラン」(実際には『Slow Train Coming』は1979年8月の発売でギリギリ70年代なのだが)として、大きく2つに分けてとらえているふしがある。「ふしがある」なんてなんだか他人事のようだが。でも、たしかに「そこまで」と「そこから」では、たんなる音楽的な印象以上の「何か」が致命的に違っている気がする。乱暴な言い方をすれば、その2つのディランはまったく違うミュージシャンとして聴かれるべきだとすら思っている。

でもそれは、たぶんディランに限ったことではないのだとも思う。それは、ロックを含むポピュラー・ミュージック全体が直面した時代の変化なのだ。洗練と細分化と商業化は、あっという間にロックの可能性を掘り尽くし、方法論のカタログ化を押し進めてしまった。うまくは言えないが、鶏が先だった時代から、卵が先の時� ��へ、といった感じ。ともかくここからのディラン(というかほとんどすべてのミュージシャン)にとっての問題は、いかに新しいサウンドを生み出すかではなく、いかに既成のサウンドとうまく付き合っていくかへとシフトしていく。その視界に映る光景は、テキサスの荒野とニューヨークの摩天楼くらい違ってくる。音楽に限らず、ある特定の表現様式が成熟するというのはそういうことなのだ。良くも悪くも。

というわけで、『Slow Train Coming』から『Saved』、そして『Shot Of Love』へと続く、俗に言う「キリスト教3部作」である。そう一括りにされているのは、この時期のディラン自身が神への目覚め、キリスト教への改宗を明言していたこともあるが、たとえば歌詞が明らかにそういった傾向を帯びたり、サウンド的にもゴスペル形式のような南部志向を強めたりしていたからという理由も大きい。もちろん日本人である僕たちにはこの宗教的な問題が意味する微妙なところは伝わりにくいし、ましてや歌詞の面での変化を語れと言われても厳しいものはある。だが、そこに込められたメッセージ(歌詞だけではなく)がどれほど優れていようとも、出てきたものが音楽として優れていなければ意味はない。逆に言えば、真に深く優れたメッセージは、音楽自体をも優れたものにするはずだ。僕たちは、そうや って音楽から「メッセージ」を受け取っているはずなのだ。言うまでもなく1970年代以前も、そして1980年代以降も。


Slow Train Coming/Bob Dylan
(邦題『スロー・トレイン・カミング』)
(1979)
★★★★

2012年4月11日水曜日


[はじめに]

 それは、ある1通のメールから始まりました。
   「SOAさん、こんなDIYを見付けました。つぎはこれがいいですよ!(爆)」
 そこには、新型CIMAのヘッドランプを、フォグランプとして取り付けたDIYが紹介されていました。
   「す、すごい!」
 目も眩むばかりの圧倒的な光量といい、前方に向かって一直線に進む配光パターンといい、まさに理想的なフォグランプとなっていました。

 しかし、SOARISTO号のフォグランプのHID化はすでに完了していますし、第一、これだけの大きさのフォグランプを取り付けるスペースなどありません。
   「う~む、困った」
 しかし、「(爆)」と言われてしまったからには、是が非でも完成させるしかありません。こうなったら職人の意地です。(笑)

 フォグランプとして、どこに取り付けようかと頭を悩ませていたところ、はたとあることに気付きました。
   「ロービームに入るじゃないか!」
 そうなのです。ARISTOのヘッドランプのロービーム側が、新型CIMAのヘッドランプを埋め込むのに、ちょうどいい大きさをしています。

 しかしそのためには、純正のディスチャージヘッドランプユニットを分解し、新型CIMAのヘッドランプユニットを取り付けられるよう、かなりの改造が必要となってきます。

 さらには、ARISTOに移植するにあたっての最大の難問として、車の加重状態に応じてヘッドランプの光軸を調節する「オートレベリング機能」を、どのように活かすか、があります。

 すでに、VIPカーといわれるカテゴリーの車には、新型CIMAのヘッドライトを無理矢理移植したものが出ています。ただ、光軸がバラバラであったり、配光が不自然になってしまっているものも、中にはあるようです。せっかくの移� �ですが、ルックスを優先したが故に実用性をスポイルしまっては、意味がありません。

 そこで、「ルックスと実用性を両立させた移植」を第一目標とすることにしました。新型CIMAのヘッドランプの特徴的なデザインや圧倒的な光量を活かしつつ、オートレベリング機能をきちんと動作させ、日常のドライビングにも何の支障も来さないこと、また限りなく純正に近いクオリティーで作り込みを行うこと、この2つを主眼(!)とします。

 ここに、「フォースは我に、新型CIMA複眼移植プロジェクト」が発足したのでした。
(ちょっと大げさか?)0xF9C7

[マルチプロジェクターヘッドランプについて]

 新型CIMAのアイキャッチポイントとなっているマルチプロジェクターヘッドランプですが、日産さんによると、「従来のプロジェクターの1.7倍、世界最高レベルの明るさを実現した」とのことです。

[写真1]


  • 東京モーターショーに展示されていた、新型CIMA(F50)のマルチプロジェクターヘッドランプユニットです。(写真1)
  • 説明には、「7眼化により、大口径双放物面リフレクターによる高い光束利用率と、レンズ軽量化を両立させたヘッドランプ」とありました。
  • 自動車工学の紹介記事によると、「マルチレンズと特殊な自由局面リフレクタの組合せおよび7つの凸レンズで、大光量をより広く最適に配光し、従来のフォグランプの照射範囲もカバーする」そうです。

 

[写真2]

2012年4月9日月曜日



■Bobby ボビー(原題)

●エミリオ・エステベスが脚本、監督を手がける「ボビー」…出来の如何を問わず、ある世代は見たいという欲求に駆り立てられるかもしれない。「ボビー」とは、故Robert Francis "Bobby" Kennedy、ロバート・F・ケネディの愛称だった。
上院議員として暗殺された兄、ジョン・F・ケネディの後を継ぐもの、時期大統領候補として、民主側にいた一般大衆のほとんどが疑うことがなかったその存在。そのボビーが兄に続き、暗殺されたのは、1968年6月6日。
場所は、ロサンゼルスのアンバサダーホテル。

物語は、あの日、あの時、ボビーが殺された時、アンバサダー・ホテルに居合わせた22人に視点を当てて、彼の死に直面した人々がその時にどう影響されたのか、といった場面展開になるようだ。

2012年4月8日日曜日


ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(John Winston Ono Lennon, MBE、1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド・ビートルズのメンバーで、ボーカル・ギターを主に担当した。

出生名はジョン・ウィンストン・レノン(John Winston Lennon)であったが、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第5位[1]

1960年代に世界的人気を得たビートルズの中心的メンバーであり、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作した。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年12月8日23時頃(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性により射殺された。

[編集] ヒット曲

『ギネス・ワールド・レコード』では、最も成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)」と紹介されている。ビートルズ時代には、「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」、リードボーカルを採る「プリーズ・プリーズ・ミー」「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「愛こそはすべて」「アクロス・ザ・ユニバース」「カム・トゥゲザー」、ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」などを発表した。

[編集] 生い立ち

幼年期

1940年10月9日(18時30分)、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父・アルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母・ジュリアも他の男性と同棲していたため、母の姉・メアリー(ミミ伯母さん)夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時の英国首相ウィンストン•チャーチルから。

1946年、父・アルフレッドが帰国し、父に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母・ジュリアがジョンを連れ戻すが、母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫婦のもとで育った。父もまた行方不明になった。

[編集] ビートルズデビューまで

少年時代

1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。

1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。

1957年、処女作・「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。

ポールとの出会い

3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。 7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人(アイヴァン・ボーン)の紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーと言ったアメリカのロックンロールに夢中になった。

ジョージ・ハリスンとの出会い

1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンのクオリーメンへの加入を認めた。

母の死

1958年7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。[2]この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、またすでに(1956年 14歳の時)母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。

1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート(Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。

ハンブルク

この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。ジョンはハンブルクの楽器店で1台目のリック325を購入した。 1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルバー・ビートルズ」と変わっていた。 8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。 1961年4月ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。ジョンはすぐにポールを説得してベーシストにする。ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。[3]また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍で死去した。 6月ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」をレコーディングした。

[編集] ブライアン・エプスタインとの出会い

1961年12月ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者ブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるも不合格となった。 6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピートを解雇し、以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマー、リンゴ・スターが加入した。 10月5日「ザ・ビートルズ」としてレコードデビューを果たした。

[編集] 最初の結婚

1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。

シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノンは1963年4月8日に誕生した。しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。

[編集] キリスト発言

1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次のような発言を行なった。

「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。

「僕がもし、"テレビがイエスより人気がある"と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

[編集] ジョンとヨーコ

1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War(日本では1993年にビデオで初めて発表。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。

二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。

結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記された。

彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスがベトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。

2012年4月7日土曜日


この番組の見所は何だと思いますか?

マット・ボマー:「この番組の魅力は、究極的には、すごく型にはまったFBIエージェントと向こう見ずな詐欺師という、普通ではあり得ない人間関係について描かれているところだと思うんだ。そしてそんな彼らの関係性がどのように変わっていくのかということとか、敵対者でありながら、究極的にはお互いをいかに尊敬し合っているのかということ。そのふたりの関係性の間にあるエネルギーが、物事を常に新鮮で興味深いものにしていることが番組の魅力になっていると思うんだよね」

ニールのキャラクターは非常に愛すべき役柄ですが、彼を演じるにあたってどのように役作りしているのですか? 「泥棒成金」のヒーロー像が頭の中にあったのでしょうか?

マット・ボマー:「クリエイーターのジェフ・イ―スティンと始めの頃に、情報源となる資料を読み、役柄の参考となるものについてはよく話し合いをしたんだよね。『泥棒成金』(55年)のケイリー・グラントから、『スティング』(73年)のポール・ニューマンから、それに、「フェリスはある朝突然に」(86年)ですらね。彼は大きな子供みたいなところがあって、完全には大人になりきっていないし、衝動的な行動をする。自分自身に正直であるところがあるからね。それから誰がいたかなあ。そうそう、『キャッチー・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)のフランク・W・アバグネル・Jr。とかね」

彼らのファッションも頭の中にあったのですか?

2012年4月5日木曜日


シュメールSumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。

1877年、フランス隊によってテッロー(シュメール都市ラガシュ)遺跡が発掘され、シュメール文明の存在が明らかにされた。以後20世紀の20年代にかけて、シュメールの主要都市であるニップル・ウル・ウルクの発掘が米・英・独によって行われ、シュメール語で書かれた楔形文字粘土板が多数出土した[出典 1]

[編集] シュメルかシュメールか

第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇呼称の古語「すめらみこと」を「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行したためシュメル学の先達、中原与茂九郎[註釈 1]京都大学名誉教授が混同されないように「シュメール」と長音記号をいれて表記した。シュメルの方がアッカド語の原音に近い表記[出典 2]

[編集] 初期シュメール

「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人へと知覚された関係を示す。シュメール人自身は自らを「混ざり合わされた者」(saa-gi-ga)と呼び、その土地を「キエンギ」(Ki-en-gi、「君主たちの地」の意)と呼んでいた。アッカド語の「シュメール」はおそらくこの名前を方言で表したものであろう。彼らが「カンガ」あるいは「キエンガ」と自称する言語学的グループの異称のままであった。

シュメールの言語、文化、おそらく外見は周囲のセム系の民族とは異なっていた。しかしシュメールの男子像を見る限り大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌した像もあるので未だ謎である。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自をもつとの観点にいたっている。他の学者はシュメール人とはたんに言語学的な概念であり、シュメール語についてのみ適用され、民族集団としてのシュメール人を分離して示すことはできないということを示唆している。その場合、シュメー� ��人は正確には「言語学的シュメール人」ないし「カンガ人」と呼ばれるべきであろう。スバル人による異称は、メソポタミアやレバントにおけるセム語を話すさまざまな言語グループと結びついていて、シュメール語の言語的基盤とは関係がなかった。

一部の学者は、シュメール語と、エラム語やドラヴィダ語との言語学的結びつきを考慮している。しかし言語学においてより一般的に受け入れられている説では、シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。

[編集] ウバイド文化

ティグリス・ユーフラテスに囲まれた"肥沃な三日月地帯"において、これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるようになった[註釈 2]のは紀元前8000年頃だった。当初は天水農耕に頼っていた彼らであったが、のちに灌漑農法を導入するようになり、年間降水量200mmの限界線を超えて周辺地帯にまで農耕文化は拡大、穀物の収穫は大幅に増加した。

2012年4月1日日曜日


香席の詳しい手順や作法は、ここでは説明をしませんが、「組香とは、2種類以上の香を使って一つのテーマを表現し、鑑賞するもの」という説明だけではどこが面白いのか、さっぱりわからないと思うので、いくつか例をあげて簡単に説明します。

1.宇治山香(うじやまこう) (▲)

喜撰法師の「我が庵は都のたつみ鹿ぞ住む 世を宇治山と人はいふなり」という和歌をもとにしたもので、五種類の香木を用意し、はじめに一通り順に香炉でたいて出席者に匂いを聞かせます。これを試香(こころみこう)といいます。次が本香で、香元がその中の一種類を選んでたき、それが試香の何番目のものかを当てます。答えは各自、半紙(名乗紙という)に筆で書きます。このとき「一番目」とか「二番目」とか書くのではなく、