世界史疑問・西アジア史
1A 「世界最古の楔形文字法典であって、世界最古の法典」でもイコールです。『リピト=イシュタル法典』じゃなく、『リピットイシュタール法典』でもいいです。『=』や『・』はどちらでもいいし、なくてもいいです。
Q2 前88−前63 ミトリダテスの反乱と 171−138 ミトラダテス1世 のつながりはあるんですか?
2A 関係はとくにありません。前者は小アジア(現トルコの西部)のポントス王国の王の名前で、後者はパ ルティア王国(現のイラン)の王です。名前のMithrida Mithrada はよく似ていますが、これはこのイランから西は地中海一帯に広がっていた神の名前ミトラ神(ミトラ教)からきているのでしょう。
Q3 質問(というよりミニサイズの添削?)お願いします。 まずハンムラビ法典に関して、『この法典はどのような原則にたって制定されているか(40字程度)』という問いに対して『「目には目を、歯には歯を」に見られる同害復讐法と身分によって罪の重さが違うという原則。(43字)』と書きました。 また、死者の書について、『この文書の性格と内容を50字以内で簡略に』という問いに対して『パピルスに書かれた、死後の世界や現世の行いが死後に反映するという発想を表すもの(45字)』としました。それぞれ評価していただけますか?
3A ハ� �ムラビ法典は満点です。死者の書は、「性格」の答えになっていても、「内容」にまで入り込んでいないので半分でしょう。内容としては、神々への賛歌、死者の再生復活に必要な教え、死者を邪悪なものから守る呪文、などどれでも一つ書けたら良かった。
ミレトス市はギリシア人の植民市です。カルタゴの他にあげるとすれば、ガデス(スペイン南岸)くらいか、やはりカルタゴですね、書けるのは。
Q4 古代エジプトでアメンホテプ4世がテル=エル=アマルナに遷都したあとツタンカーメンが都を元にもどす先はテーベですか?メンフィスですか?細かいですけど、山川の用語集と三省堂の問題がくいちがっているので。
4A テーベに都をもどしますが、ほとんどメンフィスに居ました。古代・中世では都は王の居る場所でもあるので、どちらでもいいのです。どちらかを問うこと自体が悪問です。スサでもペルセポリスでもどちらでもいいのと同じです。
Q5 メソポタミアの神権政治のところに「エジプトのも のとは違う」と授業を聞いて、自分で注釈を入れてあるんですが、実際にどこがどう違うのですか?
5A メソポタミアの神権政治のところに「エジプトのものとは違う」は、エジプトの王は God king ですが、メソポタミアは Priest kig です。つまりエジプト王は神そのものとして君臨し、メソポタミアの王はあくまで神官・司祭、たんなる王という地位にあり、宗教的な承認はしますから神権政治ですが、明らかにエジプトの王権は強く、メソポタミアの王権は弱いのです。
Q6 オリエントに鉄製農具はいつから使用されたのですか? なにかオリエントは武器で中国は農具のイメージが強いのですが?
6A たしかに。教科書の知識だけで、けっこう鋭い質問になっています。ヒッタイト帝国が製鉄の発明国として名高く、この帝国の崩壊が製鉄の技術を拡散させる契機となった。これは教科書の知識です。たいていの専門家の書いたものには、武器だけでなく、農具としても、この前12世紀以降につくられた、と書いています。 しかしどんな鉄製農具があるのかと、調べてみてもなかなか農具の証拠写真も記載も出てきません。どうやら武器としての鉄は前12世紀以降オリエントの諸国で見られるものの、農具の記録なり実物はあまり出土していないようです。イスラエルには前1000年頃の短剣が出土しています。武器はナイフとしても使えますが……。エジプトは前900年頃の斧(おの)の記録があるものの一般の農具としての鉄はアッシリア帝国の支配後になるそうです。もう少し調べて分かったらお知らせします。
Q7 ササン朝がサトラップ制とあり ますが、教科書には書いてなかった気がするのですが、これはアケメネス朝との関係から推測して書くものなのですか?
7A 教科書にササン朝もサトラップ制をとったことを書いたものは見当たりません。推測では書けません。次善の策としては、中央集権体制をとった、と書くくらいでしょう。わたしは予備校では教えていますが……。ササン朝はアケメネス朝の復活を意図した王朝であり、この属州制もそのひとつでした(他に王号のシャーも)。アレクサンドロスもこれをまねた制度を全土でしき、ササン朝にうけつがれました。ササン朝では名称はしだいにちがうものに変りましたが、総督を派遣して全権をにぎらせて属州を統治させる、という方法は変わりません。イスラームではアミールが担当します。イ� ��ラームではジズヤ・ハラージュ(もともと二つともペルシア語)という税制をしいていますが、これも実はササン朝の制度を名称とともにそっくりまねたものです。という風にふりかえると、アケメネス朝の制度が後々の西アジアの帝国支配の基礎であったことになります。
"神の子供たちは私たちはシオンに行進している
Q8 イェルサレムがユダヤ教やキリスト教の聖地だというのは判りますが、なぜイスラム教徒にとっても聖地なのですか?
8A 夢です。開祖ムハンマド(マホメット)があるとき夢を見て、夜の旅(ミーラージユと言います)をしたというのです。聖なる礼拝堂(メッカのカーバ神殿)から、天使ガブリエルに連れられ翼つきの天馬にのって遠隔の礼拝堂(これははじめ分からなかったのに、イェルサレムと後に決まりました)に行き、そこから光のはしごにのって昇天し、神にあってひれ伏した、と伝えられているためです。この伝説を信じるイスラム教徒の正統カリフ(ムハンマドの後継者)2代目ウマ� �が、イェルサレムを征服したおりに、昇天の出発点とされた岩を「発見」して、礼拝したと伝えています。さらにムアーウィヤ(ウマイヤ朝の創始者)がここでカリフを名乗りはじめ、かつ礼拝堂(モスク、アクサー・モスク)を建てました。さらに後のカリフがユダヤ教・キリスト教の聖地の場所で、この岩を囲むように「岩のドーム」という8角形のドームを築きました。天馬をつないだといわれる場所にもモスクが建てられています !
今はメッカにむかってイスラム教徒は礼拝をしていますが、最初はこのイェルサレムにむかって礼拝をしていたのです。ウマイヤ朝のときにはメッカを別のカリフを名乗る人物に奪われたこともあり、イェルサレムを巡礼地にしたこともあります。
Q9 山川の『詳説世界史研究』(1995年 初版)のp.151などを見ると、「最後の預言者」というコラムに「イスラムの教えによれば、人類は元来ひとつの共同体であったが、争いによって分裂してしまった。そこで神は各々の共同体に預言者を遣わし、人々を正しい道に導こうとした。アダム・ノア・アブラハム・モーセ・ダヴィデ・ソロモン・イエスなどがこれらの預言者に相当し、ムハンマドは最後に現れた最もすぐれた預言者であるとされる。」とあります。
ここで、たとえばモーセは、ヤーヴェ(ヤハウェ)から十戒を授かった預言者ですよね。ムハンマドは「最後の預言者」だって自ら称したらしいですが、彼がいう「預言者」にはモーセなんかも含めた上で、自分が「最後」だって言ってるんでしょうか?
それならアッラーの神とヤーヴェって同じ神のことを言ってるの?って疑問を持つのは変ですか? いったいムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教の神をどうとらえているのでしょう?
ムハンマドは「アッラーが遣わした最後の預言者だ」って言っているのか、「ヤーヴェとかアッラーとか様々な神が遣わした最後の預言者だ」って言っているのか、どう理解すればいいのでしょうか?
9A セム語族のユダヤ人もアラブ人も神は唯一神ということは変りません。神の名の呼び方がいろいろと変っても(ユダヤ教の神でもヤーヴェ、エホバだけでなく20種類くらい呼び方があります)唯一神という考えをもっています。しかしその唯一神が、アダムからはじめて、いろいろな人(預言者)に言葉を預(あず)けてきたけれど(モーセも預言者ととります。イエスもキリスト教徒のように神の子とはとらず、イスラム教では預言者のひとりとみなしています)、ムハンマド(マホメット)に最後の言� ��(預言)を与えた、もうこれ以上は預言(神の言葉)はだれにも明らかにしないよ、というとらえかたです。マホメットも旧約聖書・新約聖書のことばを神の預言と認めるけれども、それは限界のある不十分な言葉だった、いま自分に下された神のことばが最高なのだ、かつ最後なのだと言っているのです。そしてかってセム語族の宗教を完成したアブラハムの宗教は、その後だんだん堕落したとみなし、マホメットがアブラハム時代の純粋な宗教にもどすのだと主張しています。
Q11 先生の練習帳の知識編p50・問10の答に、「啓典の民はジズヤとハラージュを払えば信仰は認められた」
とありますが、それ以外の宗教の場合はこれと扱いがどのように異なりますか?
11A 政権・王朝次第です。ウマイヤ朝下のゾロアスター教徒や、ムガル帝国ではヒンドゥー教徒がジズヤを払わずに済む融和政策をとっています。問題の「キリスト教徒にたいして」は「啓典の民」にあたるので、これでいいのですが、普遍性がありませんね。
Q12 ウマイヤ朝期、非アラブ人は自由に好きな宗教を信仰できたのですか?
12A 自由に好きな、は条件つきです。ジズヤ・ハラージュを払えばです。ジズヤはイスラム教徒でないものだけに課す税金ですから制裁のひとつでしょう。完全な自由はないといえます。
Q13 スルタンという称号がいろんなとこ� �に出てくるのは変です。トゥグリル=ベクが最初でカリフからもらうものではありませんか?
13Q 確かに、トゥグリル=ベクが最初でカリフからもらった人物ですが、最初に名乗った人物ではありません。イスラム史上初めてスルタンを称したのはガズナ朝のマフムード (位998〜1030年) で「ガズナのスルタン」と唱えました。なにもアッバース朝に反抗するつもりはなく、カリフの権威を認めています。正式に、アッバース朝のカリフからいただいたのはトゥグリル=ベクです。以後主としてスンナ派イスラム王朝の、トルコ、イラン、インドなどに君臨したものが名乗ります。支配者、王、力を意味するアラビア語で、かならずしもカリフから称号をもらわなくても名乗ったのです。山川出版社の『世界史B用語集』の「スルタン」の項目の説明ように「イスラム世界の世俗君主の称号。トゥグリル=ベクが最初」ではわかりませんね。
教会のコミュニティは何ですか
Q14 論述練習帳の「知識編」の50ページ12番で、イスラム文化の特色について述べよ。の解答のところに王侯貴族が担い手で、宮廷文化といってよいと書いてありますが、どういうことなのか良く分かりません。東京書籍の教科書の113pに「商人の町メッカに生まれたイスラーム教は、公平な取引など商人の倫理を重んじていて、支配者が商業を規制したり、人やもの、情報の自由な移動を規制することをゆるさなかった。」とあるので、支配者が多額の税をとって贅沢をしているようなイメージのある宮廷文化というのが良く分かりません。
14A 確かにイスラームの宮廷のことを教科書はあまり書いていません。ただ宮廷 におけるカリフやスルタンのぜいたくな生活は名高いものです。それはとくに『千夜一夜物語』の中にアッバース朝時代のカリフや貴族たちのハレム(日本でいう大奥)の情景によく描かれています。その中のひとつでは宮廷に1年の月数に従い12の宮殿があり、各宮殿に30の部屋があり、合計360の部屋にはそれぞれ1人ずつの側室が住み、王は各側室に年に一夜のみを割り当てていたとあります。
拙著『各駅停車』にもあげていますが、「ハールーンの豊かさは、息子の結婚式に黄金の玉を招待客に投げあたえ、臣下の礼服のために金貨40万枚を払ったエピソードで知られています!」と書いています。カリフやスルタンが臣下に金銀をばらまき、庶民のための福祉施設をつくったり、モスクを建立することは人気とりにも必要な行為でした。他にマドラサ(学院)、キャラバンサライ、ハンマーム(公衆浴場)なども建てました。
アッバース朝でなくても、スペインのアルハンブラ宮殿、オスマン帝国のトプカプ宮殿、アイバクのクトゥブ=ミナール、アクバルの5回の遷都のたびの宮殿建設、シャー=ジャハーンのタージ=マハル廟と巨大な建築物が目立ちますが、これらはみな王(カリフやスルタン)たちが建てさせたものです。イスラーム文化の最大の特色は建築にあり、というくらい建築物にはイスラームを代表する文様・絵画 (ミニアチュール) ・陶磁器・ガラスが装飾され、この宮廷に図書館が設けられて学者たちが王の前で講義をしたり議論をしたりしました。アルハンブラ宮殿の蔵書数は40万冊と数えられています。イスラーム文化の特色として都市文化(東大なら都市文明)といいますが、その中心に宮廷があった、ということです。
Q15 用語集のイスマーイール派のところに、「13Cモンゴル軍に滅ぼされた」とあるのですが、なにか王朝が滅びたかのように書いてあるのはなぜですか? イスマーイール派を信奉したファーティマ朝はアイユーブ朝が滅ぼしたのではないですか?
15A たしかにこれだけの説明では判りにくいですね。実は、11世紀末にイスマーイール派に内紛が起こり、ファーティマ朝と断絶したニザール派とい� �一派ができます。このニザール派の根拠地となったイランのエルブルズ山脈中のアラムートの要塞が侵入してきたモンゴルによって陥落したことをいっています。エジプトのイスマーイール派は残っているのです。このニザール派は多数の要人を暗殺したことで知られ(セルジューク=トルコの名宰相ニザーム・アル・ムルクを暗殺)、ニザール派と接触した十字軍によってヨーロッパに伝えられます。正統派のイスラム教徒がシリア地方のニザール派に対して、かれらのことを軽蔑的に「ハシーシー(大麻野郎)」と呼んだことから、アッサシーノassassino(イタリア語)、アサシンassassin(英語)などになったらしい。
『東方見聞録』(教養文庫)には概略つぎのような記述があります。山の中の城の中には『コーラン』に出てくる天国のような楽園が造られている。美しい庭園があり、せせらぎには、葡萄酒、牛乳、蜂蜜、清流が流れ、入園者を喜ばすために多くの美女が配されている。山の老人は刺客(アシシン)を仕立てる為に、近くから12〜20歳の若者を集めて来る。若者は薬で眠らされ、この庭に連れ込まれる。目覚めた若者は自分が天国にいるようだと感じる。美女たちは満足のいくまで接待する。再び眠らされ、我に返った時に、老人が暗殺を指令し、その報酬として、天国での生活を約束した。こうして老人は意のままに誰でも殺すことができた。
日本の特攻隊員が飛ぶまえに売春婦と遊んだ、という田舎でわたしが聞いた話しと似ています。
Q16 「七イマーム派」とか「十二イマーム派」もありますよね? イマームの頭につく数字はどういう意味があるのでしょうか?
16A アリーを第一代目のイマーム(指導者、スンナ派のようにカリフをつかわない)として、7番目の血のつながった後継者です。この7番目のイスマイールという人物までがアリーの正統な後継者、後は認めないという立場です。12番目がサファヴィー朝からつづく現在のイランのシーア派のことで、7番目以降もつづ12番目にムハマド=ムンタザルがいずれイラン人を救いに地上に降りてくる、ということになっています。
Q17 サファヴィ� ��朝とオスマン帝国の比較が頻出のようですが宗教以外にありますか。
17A どこの大学でも「頻出」とは思えません。とくサファヴィー朝は。
<オスマン帝国> <サファヴィー朝>
長期王朝(1299〜1922) 中期王朝(1501〜1736)
スルタン・カリフという称号、に対してシャー(くわしくはシャーハン・シャーイェ)が王号。
多民族(印欧語族、アラブ人、ベルベル人)支配、に対して主にペルシア人(印欧語族)だけを支配
独自のイスラム的集権化、に対して西欧の絶対主義に学んだ
領土は末期に大幅に縮小、に対してあまり縮小せず政権交代
イスラム教徒の理由であったマルコムXは、重要な
Q18 用語集で"ホルムズ島"の項目を引いて見ますと、「ペルシア湾口にあり、1515年ポルトガルが占領したが、1622年イランが奪回した。」と載っているんですが、「ニュービジュアル版 新詳世界史図説」浜島書店 1993年11月1日発行 1999年2月1日印刷という資料集の p.71"17世紀の世界"というところにはホルムズ 1507〜1622(ポ) と載っているんです。どちらが本当なのでしょうか?
18A どちらとも正しいととれます。わたしは後者の1515年の方をとりたいと思います。「1507〜1622(ポ)」は吉川弘文館の「増補版・標準世界史地図」にも同じ年代がのっていますが。
エンサイクロペディア・ブリタニカ・コムではアルブケルケの説明で、次のように書いています。
Africa and build a fortress on the island of Socotra to block the mouth of the Red Sea and cut off Arab trade with India. This done (August 1507), Albuquerque captured Hormuz (Ormuz), an island in the channel between the Persian Gulf and the Gulf of Oman, to open Persian trade with Europe. His project of building a fortress at Hormuz had to be abandoned because of differences with his captains, who departed for India. Albuquerque, though left with only two ships, continued to raid the Persian and Arabian coasts.
ホルムズのところでは次のように書いています。
In 1514 the Portuguese captured Hormuz and built a fort. For more than a century the island remained Portuguese, but the rise of the English locally and the Persian shah's resentment of Portuguese occupation culminated, in 1622, in Hormuz' capture by joint Anglo-Persian forces.
年代が1514年になっている点がちと狂っています。ここは確かめようがわたしにはありませんが、アルブケルケが二度ホルムズ攻略をしていて、一回目は仲たがいもあり放棄され、次のときは成功していることです。ちゃんと要塞を築けたときが占領し、植民地化がはじまったととっていいので、この1515年がいいのではないでしょうか? ローリーがヴァージニア植民をしても何度も失敗して結局成功しませんでした。ジェームズ・タウン建設からがヴァージニア植民地のはじまりと一般にはみなしますので。
Q19 聖地管理権についてよくわかりません。即ち、教科書には16世紀以降はフランスが保有していたとありますが、それ以前はどこが管理していたのでしょうか(ビザンツ帝国?)また、聖地の管 理とは具体的に何をするのでしょうか?少なくともこの時代はイスラムの勢力下にイェルサレムがあるわけですから管理しようにもイスラム側が許可しないとおもわれますがいかがでしょうか。
19A それ以前はどこが管理……主なものをあげますと、ローマ帝国(→ビザンツ帝国)領から614 年にササン朝の侵入で破壊されましたが、638年正統カリフ時代のウマルによる入城から再建され、1071年セルジューク朝、1098年ファーティマ朝、1099年十字軍、1187年アイユーブ朝(サラディン)、1517年オスマン帝国と支配者が変転しました。16世紀にオスマン帝国がカピトレーション(治外法権・商業上の特権)でフランスに管理権を与えた、という順です。
聖地の管理とは具体的に何をする……イェルサレム市内のキリスト教徒(カトリックもギリシア正教徒も)の住む地域と諸教会、西欧からのキリスト教徒巡礼者の管理・保護のために外交官・兵士をおくことです。イスラム教徒たるオスマン帝国の支配下にあって、キリスト教徒はその信仰と自治は許可されています(ミッレト制といいます)から。
Q20 オスマン帝国の半植民地化とは、どのような国によるもので、どのようになされたものなのですか?
20A オスマン帝国はクリミア戦争で勝利国にはなりますが、実はサラ金地獄にも入ります。借金が返せなくて借金をくり返しました。そこで1881年に欧州諸国で「オスマン債務管理局」がつくられ帝国の財政を直接管理することになります。英� �独伊蘭墺の各債権国とオスマン銀行との代表7名からなる委員会を構成し、トルコの租税・関税の徴収権をえた機関です。タバコはフランス資本の会社が独占します。ドイツの銀行、ロスチャイルドの銀行が利子を吸収しました。鉄道はイギリスと後にドイツ(バグダード鉄道敷設権)、小アジアの農業も国際市場に組み込まれていきました。都市の港湾施設、水道、電気、都市ガス、市電などの公共施設、銀行や加工工場建設の機会も西欧企業にあたえました。商会・劇場・カジノ・居酒屋にも西洋人が進出します。こうして鉱山・鉄道・銀行・公共事業などの財政組織・基幹産業のほとんどすべてを外国系特権企業の手にゆだねてしまい、経済的には完全にヨーロッパ諸国の植民地となっていきました。
Q21 (1)どうしてフランスがアリーを支援したのですか。
(2)オスマン帝国スルタンの『宗主権』のもとに……」とありますよね。主権やら宗主権やらわけがわからなくなってしましました
(3)「フランスがエジプト、ロシアがトルコを援助「したために」イギリスが干渉し……とは?
21A (1)(3)は共に「インドへの道」を邪魔するものは排除したいというイギリスの基本的な政策から来ています。フランスはイギリスを邪魔したいし、イギリスは邪魔されたくない、というインドへの地中海・アラビア海にでる船の道をめぐる攻防です。インド(先は中国も)との貿易はイギリスにとって大きな利益でしたから。フランスはナポレオン1世のエジプト遠征にもあったようにエジプトを支配できたら、ここを起点に全アフリカを植民地化できると踏んでいるのです。またインドへの船の道でもイギリスを通さないこともできます。スエズ運河はまだできていませんが、やはり南アフリカまわりではあ まりに遠いの。
(2)強国が弱国に圧力をかけれる状態のとき、とくに外交権を牛耳っているときに使います。保護国化(外交権をうばう)という言い方とほぼ同じです。アリーは太守(総督)という地位のままであることは変わらないのですが、内政権は完全に列国にロンドン会議で認められましたが、外交権(宗主権)はまだトルコにあることになっています。それで第一次世界大戦がはじまるとこの外交権(宗主権)をイギリスがうばい、トルコから完全に離れます。しかし今度はイギリスの外交権(宗主権)の下になる、ということです。これはプリントの18のエジプト・スーダンのところの1914年のところを見てもらうと「オスマン=トルコ帝国の外交権をうばう」と書いてあります。エジプトにとっては、これからはトルコでなくイギリスが� ��交上、またすでに軍隊も来ていますので、対決の相手になります。
Q22 1907年の英露協商で、「イランでの両国の勢力範囲の取り決め、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲」まではわかるけど、なんでいきなり「チベットは中国の主権を認めた」んですか。
22A 英露協商で、チベットでの中国の宗主権を認め内政不干渉を守る……というのは、逆に言えばロシアにチベットに干渉してもらいたくない、ロシアによるチベットの植民地化は困りますよ。それでは中央アジアにぐっとロシアが南下してしまい、英領インドが危なくなる。それよりここは妥協していただいて、ドイツに対抗して手を結びましょう、というものです。実はすでに清朝とチベットのことは互いに内約済みでした。清� �には宗主権というあいまいな外交権をチベットの頭ごなしに英清間で決めています。ダライ・ラマ13世が清朝から完全に独立したがっていることを知っていたので、英軍を派遣して脅しており、また後でチベットとも1904年にラサ条約を結んでその独立性を暗に認めています。こうした二枚舌と刀を使って既成事実をつくっておいてロシアに認めさせたのです。この間の事情抜きに、いきなりチベットの話が出てくるのが教科書というものですよ。
Q23 OPECとOAPECのちがいがわかりません。それぞれどんな特徴をもっているんですか?
23A OPEC(石油輸出国機構)は石油産油国でつくった(1960年)もので、石油資源を産油国で守ろうとし意図してつくられました。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は19 68年に第三次中東戦争で大敗北したため、石油で欧米側に圧力をかけようと政治的な意図でアラブ人の国だけの参加でつくられた団体です。石油を産出していないエジプトやシリアも加盟しているのはそのためです。加盟メンバーを見てもちがいが分かるでしょう。OPECはイラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、ベネズエラ、カタール、インドネシア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル(92年脱退)、ガボン。OAPECはクウェート、サウジアラビア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、イラク、エジプト、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、バーレーン、リビアです。後者はみなアラビア半島周辺の国々にかぎられています。
Q24 イスラエルという国 は、イスラエル国かイスラエル共和国かどちらが正しいのですか?
24A 正しいのはイスラエル国です。『世界史B用語集』(山川出版社・旧版)には「イスラエル共和国」という項目があり、その中の説明文に「……現在の国名はイスラエル国」とありますが、これはまちがいです。イスラエルは国名を変更したかのように書いていますが、建国以来変更したことはありません。イスラエル大使館に直接電話で聞いて確かめています。変更したことがありますか、ときくと、そんなことはありません、というのが大使館員の答えでした。これは多くの用語集の源泉になっている『世界史小辞典』(山川出版社・旧版)に、「イスラエル共和国」という項目があり、やはりまちがっているためです。『大学入試・世界史新 用語集B』(あすとろ出版)、『新版・必携世界史用語』(実教出版)などもまちがっています。99年度の西南学院大学の法・神・文学部の第4問に「……年にイスラエル共和国を建国した」という問題文がありますが、これは毎年見られるまちがいです。
それでも疑問に思うならイスラエル大使館のホームページの歴史「現代のイスラエル」を見てください。
Q26 イラン立憲革命の所をやっている時に思ったのですけど、どうして'立憲'したがるのですか? また、イギリス・ロシアはどうして立憲を食い止めるのですか?
26A 立憲君主政は当時のアジアの国家としては国家強化の手段と考えられ、君主が憲法という苦い薬を飲めばなんとか国家の強化、国民の声よく代表している表れとしての君主政府を示すはずでした。日本もそうでした。全国民を代表して政治をとりおこなっている名目がなりたつはずでした。英露の反対はこれらのことがらが国民を結束させ、君主を中心にして反帝国主義の闘争をおこしては困るからでした。自分たちは立憲君主政をたもち民主主義を実現しながら、それがアジアでもおこなわれることは嫌ったのです。あくまで未開なアジアは自分たちの市場・原料供給地にとどめておきたかった。民主主義は西欧だけでいい、という考えです。
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