ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃
ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを併合、そして後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了する予定になっていたという。しかもその間、イギリス、フランスは無干渉でいるだろうと計算していたらしい。そして、ヒトラーが計画していた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」ではなく、ユダヤ人たちを東方地域へ移住させることだったという。
しかし、計算が狂ってしまった。特に1940年5月11日にイギリスの宥和派であるチェンバレン首相が解任され、チャーチル首相が登場すると、大きく計算が狂ってしまったという。
イギリスの対ヒトラー政策を、「宥和」から「全面対決」へ突然変えた男、チャーチル。彼はナチスの脅威からヨーロッパを救った平和の使者だったのか? それとも……
ベルヒテスガーデンにイギリスの
チェンバレン首相(中央)を迎えたヒトラー
イギリスのロスチャイルド家の代理人
ウィンストン・チャーチル首相。彼の
登場とともに、ドイツの一般市民に
対する大量爆撃が始まった。
廃墟になったドイツのドレスデン(1945年2月13日)
米英空軍の4日間にわたる徹底した無差別爆撃で、
宮殿や教会など18世紀バロック建築の建ち並ぶ
文化の街は一変、瓦礫と化した。これは
チャーチルが犯した戦争犯罪である。
第二次世界大戦でのヒトラーとロスチャイルド家の関係については、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)が詳しい。(以下に、該当する部分を載せておきます。参考までに)。
ロスチャイルド家の紋章
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── ロスチャイルド家の代理人、チャーチルの反撃 ──
ウィーン・ロスチャイルド家の当主ルイスが逮捕された1938年には、ドイツを離れてアメリカを訪れていたマックス・ワーバーグがとうとう帰国不能となって、さしものワーバーグ銀行が閉鎖された。次いで1939年には、大作曲家を誕生させたメンデルスゾーン商会が8月に消滅した。こうして見えないロスチャイルドの最後の牙城も、ドイツではハーケンクロイツ(カギ十字)の影に消され、一切が見えなくなった。その8月が過ぎ去ると、9月1日であった。ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。
◆
実際には、ドイツ、イタリア、日本は、これよりはるかに前から戦争に踏み切っていた。「1939年9月1日」が世界大戦開始の日付けとされるのは、ドイツのポーランド侵攻によって、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味していた。言い換えれば、「ロスチャイルド本家がただ2ヶ所だけ残っているイギリスとフランス」が反撃の行動に移った、それが世界大戦であった。
非常に病気である誰かのためtehillim
ドイツとソ連によるポーランドの分割占領が行なわれ、さらにソ連はフィンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェーを占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、どうもおかしい。変なのである。開戦したはずのドイツとイギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦争をしないまま8ヶ月もの歳月が過ぎ去っていたのである。
後年われわれが強い印象を受けてきた、"悪魔ナチスに対する正義の連合軍"の激戦どころか、ドイツとフランスの国境付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階では、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。
では、どこから両軍が激戦に転じたかと言えば、イギリスの首相がチェンバレンからチャーチルに交代したようやく1940年5月のことであった。ここからが真の世界大戦になる。ナチスに追い詰められたユダヤ人の立場で考えれば、そこまでの"奇妙な疑似戦争"とも言うべき優柔不断な状態を演出したチェンバレン首相は、宣戦布告しながら戦わない意気地なしであったという。
これが今日まで歴史書に記されている内容で、ほとんどの資料が一致して指摘していることだ。一般にはあまり認識されていないが、これは新たな光を当てるべき重大な事実である。つまりヒトラーの手助けをしたのが、イギリスとフランスの首脳だったかも知れないからだ。チェンバレンの行動は、危地に追い詰められたユダヤ人の目から見なくとも、純粋な軍事的立場から分析して矛盾に満ちていた。逆に戦争を望まなかった多くの民衆の目から見ても、宣戦布告と休戦状態が両立してよいはずはなかった。この奇々怪々なチェンバレンの言動が、今日まで「ドイツとの融和政策」として記録されているのだ。
〈中略〉
第二次世界大戦の初期の特徴は、ヒトラーが自らあれほど攻撃していたはずの共産主義者ソ連と手を組んだことにあった。"卑しいユダヤ人"と"呪うべき共産主義者"をこの世から消すはずの独裁者が、1939年8月23日(開戦9日前)に「ドイツ・ソ連不可侵条約」を結び、さらに翌年2月11日には「ドイツ・ソ連通商協定」によって、ソ連から石油・貴金属・穀物の供給を受けたのである。ヒトラーを助けたのが共産主義であった。ユダヤ人の虐殺に手を貸したのが、ソ連であった。
◆
第二次世界大戦当時、ドイツにソ連から石油を供給して戦争を持続させたのは、ロスチャイルドがソ連のバクー油田から生み出した会社「シェル」であった。シェルはイギリスのロスチャイルドの会社である。すでに宣戦を布告したイギリスとドイツの戦闘のなかで、石油は軍艦・戦闘機・戦車などすべての動力となり、弾薬の源であった。そんな大事な石油を、イギリス企業が、あろうことか敵国ドイツヘ販売したのには、それなりの理由があった。
時アブラハムはカナンの地に定住したのですか?
「シェル」の支配者としてのし上がり、石油業界の独裁者ナポレオンと異名を取ったのが、ヨーロッパの石油王ヘンリー・デターディングという男だった。バクー油田をソ連が国有化したため、ひと方ならぬ苦労をして原油を確保しなければならなくなったデターディングは、共産主義を相手に闘いはじめた。彼は共産主義を憎む資本家の象徴でもあった。奇しくもこの男が結婚した女性の父親は、ロシア革命によって倒された帝政側の将軍だった。
しかしその後、今度はナチス党員の女性と結婚し、自らナチス党員となるや、ドイツに定住して次々とヒトラーの組織に資金を与えはじめた。こうして、暗殺されたユダヤ人ラーテナウ外相が敷いたドイツ・ソ連の外交路線を悪用しながら、片方ではバクーなどから石油を調達し、もう一方でナチスを育てる「シェル」の冷酷なビジネスが誕生した。デターディングは開戦の7ヶ月前にこの世を去ったが、開戦後も社内でこのビジネスが続けられたことは、石油業界の語り草となっている。
開戦から9ヶ月後、1940年6月7日に、ナチス政府は次のように公表した。「ソ連とルーマニアからの大量の石油輸入によって、わが国のガソリンは確保されているのである!」
この石油を運んだのが、ほかならぬイギリス・ロスチャイルドの会社「シェル」であった。これは、まだ解けない謎である。しかし石油の絶対量が世界的に足りない状況にあったこの当時、実業界でナチスとユダヤ人問題を重役陣が議論する空気はどこにもなく、「シェル」が商品を販売したのは自然な商行為であった。しかも、ソ連はドイツにバクーなどの石油を輸出するどころか、いまや国内の石油が不足しはじめ、11月にはモロトフがヒトラーに中東の石油を要求するほど事態は深刻になっていた。
こうしてナチスの自信に満ちた声明が、翌1941年には逆証明されることになってしまった。5月23日、ヒトラーがロシア油田の共同開発をソ連に申し入れた時、今度は、盟友であるはずのスターリンが拒否する態度に出たのである。この時点では、すでに両人とも相手がどれほど危険な人物であるかに気づいていた。独裁者と独裁者の対決が、こうして石油取り引きのために決定的な事態を迎えた。
それからわずか1ヶ月後、ドイツ軍がロシアに侵入する姿を、全世界は目にすることになった──バルバロッサ作戦。石油は魔物である。
◆
このスターリンとの対決の前に、ドイツはオランダだけでなく、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、破竹の勢いでイギリス海峡に到達。更にムッソリーニのイタリアが南からイギリス・フランスに宣戦布告し、フランスを挟撃する形を取った時には、フランス政府は逃げ出してしまったのである。
1940年6月14日、ドイツ軍がパリへ無血の入城を果たし、かの憎むべき屈辱の条約を締結したヴェルサイユ宮殿に、いまはクレマンソーの姿はなく、ヒトラーの有頂天にのぼりつめる姿が代わりにあった。パリ陥落……
〈中略〉
中世の城で働いていた人々の役割
ユダヤ人にとってただひとつ残された希望、それはイギリスのほかになかった。ウィンストン・チャーチルの両肩にすべての責任が重くのしかかってきた。ところがこの好戦家は、周囲に重厚な人材を揃えていたため、たじろぐどころか身を乗り出して戦闘を呼びかけた。ヒトラーが休戦を申し入れても、それを蹴ったのがチャーチルであった。チャーチルは、イギリスの敗北を避けるための首相ではなく、ナチズムを倒すための首相、として選ばれていたからである。チャーチルに与えられた任務は、戦勝に向かう道であった。
それまで石炭を使っていた軍用船に石油を使うよう海軍を大改革した最初の男、それがチャーチルであった。史上空前の海軍予算を使い、海軍大臣としてヴィッカースやアームストロングの造船事業に莫大な金を投じてきた。空を見上げれば、航空大臣としてイギリス空軍の生みの親がチャーチルであれば、軍需大臣として戦車という動く兵器を戦場で自ら考案したのも同じチャーチルであった。しかもこれら機動部隊への燃料補給のため、中東の石油会社の株をイングランド銀行の金で買収させてしまった。
近年の企業番付では、ヨーロッパ1位が「シェル」、2位が「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油)という順位が不文律となっている。後者はBPと略して呼ばれ、つい先年、1987年に株が民間に公開された時には史上最大規模のためロンドン・シティーが大騒動となった。石油王ロックフェラーの本拠地「スタンダード石油オハイオ社」を完全買収し、鉱山王グッゲンハイム家が支配してきた世界最大の産銅会社「ケネコット」も買収したのが1980年代のBPの姿だ。このBPの株を海軍に買わせたのが、ほかならぬチャーチルだったのである。そのためウォール街では今日でも、チャーチルは世界一の投資家とみなされている。
チャーチルは戦争が面白くてならなかった。インド、エジプト、南アという大英帝国植民地の3C拠点で、原住民を苦しめ抜いた戦争のなかから誕生したチャーチルが、今や独裁者ヒトラーを倒して自ら英雄になろうという野望を抱いていた。
◆
ところがこの人物、単純な戦争屋ではなかった。ほかに別の目的をもって活動してきた。侵略の急先鋒として、植民省のナンバー2「次官」から商務院に移って総裁のポストに就くと、ロスチャイルド一族の貿易のために走り回り、次いで情報機関のボスとして内務大臣を務めたあと、海軍大臣となっては艦船を激増させ、軍需大臣となっては戦車の生産に没頭した。さらに陸軍大臣・航空大臣・植民大臣と軍事世界のトップを歴任したが、いずれのポストにあっても、ほかに類のない軍備増強の足跡を残してきた。細菌爆弾の研究さえ命じたことが明らかにされている。
この男が大蔵大臣という要職を手にしたのが1924年、その翌年にチャーチルが何をしたかと言えば、シティーのロスチャイルドやゴールドシュミットなど五大金塊銀行がボロ儲けをした金本位制の復活という一大経済政策であった。第二次大戦の開戦と共に直ちに海軍大臣となってしきりに腕をさすってみたが、チェンバレンのドイツ融和政策の前になす術もなく、首相を猛烈に批判してきたチャーチルである。悲願であった首相のポストを手にして、そのうえ国防大臣を兼務することになったのであるから、戦争屋にはこたえられなかった。
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チャーチルは間違ってもヒトラーを倒した英雄ではなかった。イギリスの軍需産業に火を付け、そのためヒトラーとナチズムを生み出した戦争の挑発者、特にナチズムに対するドイツ国民の共感を誘発した男、第二次大戦の要因を自らの手で生み出した男、それがチャーチルの過去であった。そして自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならなかった。その男の出番が到来したのである。
"チャーチル首相の閨閥"を系図でみると、従兄のチャールズ・チャーチルが、19世紀全米一の富豪で鉄道王ヴァンダービルトの娘と結婚していたため、首相は一文無しのような顔をしながら、一族には金がうなっていた。従姉リリアン・チャーチルは、イングランド銀行総裁とモルガン・グレンフェル創業者のグレンフェル一族と結婚し、これまたロスチャイルド家とモルガン家という世界二大富豪を掌中にしていた。チャーチル本人はマルボロ(モルバラ)公爵家に属する最高位の貴族ファミリーで、1953年にガーター勲章を授けられて、サーの称号で呼ばれるようになり、チャーチル夫人は、"レディー"と呼ばれるようになった。
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チャーチルは若くして、ロスチャイルド一族に惚れ込み、南アのボーア戦争に参戦する直前、21歳のときにロスチャイルド邸のパーティーに招かれていた。
「ロスチャイルド卿は素晴しい感覚の持主で、まことに博識です。このように賢い人に会って話を聞くことができるというのは、実に貴重な体験です。」
このようにしたため、母に手紙を出していた。この文面にあるロスチャイルド卿は、MI5"スパイキャッチャー"ヴィクター・ロスチャイルドをパーティーの14年後に生み落とす家族、当時のイギリス政界を動かしていたユダヤ王の当主だった。
チャーチルの惚れ込みようは尋常なものでなく、終生ロスチャイルド家の代理人として働いたが、戦後、南アの「アングロ・アメリカン」や「リオ・チント」の資金を糾合してカナダに巨大発電プロジェクトを成功させ、アンソニー・ロスチャイルドとエドマンド・ロスチャイルドを感激させたのが、チャーチルだった。
「私が老いても友情がこわれないというのは嬉しいことです」
チャーチルはその時ロスチャイルド宛てにこう手紙を書いたが、この開発事業というのが、カナダのチャーチル河にあるチャーチル滝のダム建設で、これがのちにロスチャイルドの原子力帝国を築く出発点となり、わが国のウラン輸入に大きな道を拓くのである。ロスチャイルド家の誠実な代理人で好戦家、これがチャーチルの隠された最大の特質であった。ロスチャイルド財閥のメンバーとして、この男が首相の座についた瞬間、イギリス国内の反ユダヤ勢力は一掃され、上流社会の動揺は遂に鎮静された。ロスチャイルド財閥は崩壊していなかったのである。
以上、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)より
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