2012年4月17日火曜日

シャルル・ダンジュー3


 ノルマンのルッジェロ2世によって1130年建国されたシチリア王国は12世紀末、婚姻によって皇帝ハインリヒ6世の手に渡り、シュタウフェン家と結びつけられた。そしてその子フリードリヒ2世はシチリアを中央集権的な官僚国家につくりあげ、この王国を中心としてイタリア支配を実現しようとしていた。教皇が政治的独立を守るためにこれに激しく抵抗したことはすでに述べた。

 ここで重要なのは、教皇がシチリア王国に対する宗主権を主張していたことである。その根拠は、ルッジェロ2世の戴冠やフリードリヒのシチリア王国相続が教皇の承認を経て行われたということにあった(4) 。したがってこの説によれば、教皇とフリードリヒ2世は封主・封臣という関係でもあり、法的には教皇は王国をフリードリヒから取り上げる権利を有することになる。実際、インノケンティウス4世は1245年にフリードリヒの廃位を宣言していた(5) 。もちろん、これを実行に移すことは皇帝の生前は事実上不可能であった。

 フリードリヒが1250年に死ぬと、インノケンティウス4世はこれを好機と考え、シチリア奪回にむけて動き出したが、やはり独力では無理であった。フリードリヒ2世の後継者コンラート4世が1251年、ドイツからイタリアに入り、シチリア王国の支配を固めたからである。1254年にコンラートが幼少の嗣子コンラディンを残して死んだ後も、フリードリヒ2世の庶子マンフレディがドイツ軍団とムスリム軍団を掌握し王国を平定した。その後、マンフレディは全イタリアを支配するほどの勢いを示し、教皇はシチリア奪回どころか教皇領の支配すら脅かされる状態となったのである。

 ここに至り、教皇は当初の教皇領編入という方針を断念し、そのかわり、コントロールが効く外国君主にシチリア王冠を授け、シュタウフェン家征討を依頼することを企図した。

 その要請に対し最初に応えたのはイングランド王ヘンリー3世であった。イングランドはジョン王以来、教皇の封建家臣の地位におかれており、ヘンリー3世自身も敬虔な人物で教皇に対して従順であったためである(6) 。1253年にインノケンティウス4世は最初にヘンリー3世の弟のコーンウォール伯リチャードと交渉したが拒否された。そのかわりにヘンリーは若干9才の末子エドマンドを推し、その結果シチリア王国は教皇からの知行としてエドマンドに与えられる代わりに、ヘンリーはシチリア征服を行うことになった(7) 。

 インノケンティウス4世の死後、ヘンリーは新教皇アレクサンデル4世とシチリア征服の実行について交渉した。ここで注意しなければならないのは、シチリア遠征が十字軍に準ずるものとされたことである。ヘンリーは1250年に十字軍従軍誓願をたてており、1256年6月に出発することになっていたのだが、シチリア遠征をもって十字軍に代わるものとうけとめ、教皇に代替の確認を求めたのである。1255年これが認められると同時に、次の条件が付け加えられた(8) 。

1)教皇がシチリア征服のために負っている負債13万5541マルクをヘンリー3世が肩代りする(その不成功の際には国王の破門とイングランド全土の聖務停止)

2)十字軍従軍費にあてるため、教皇によってイングランドの教会と聖職者に課せられていた1254−56年の3年間の十分の一税(それでも不十分な場合は5年間分)を、教皇負債の償還およびシチリア遠征費にあてる

3)1256年のミクルマス(9月29日)までに遠征軍を派遣する

 しかしイングランドの貴族は、十字軍遠征のための税が単に国王の虚栄心を満足させるための「シシリアン・ビジネス」に用いられることを承知しなかった(9) 。しかも、ヘンリーが教皇に肩代りを約束した金額は膨大なもので、イングランドの財政能力では支払いは不可能であり、また遠征自体も十字軍に匹敵するほどの難事であることは明らかであった。


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 実際、ヘンリーは引き受けた負債を完済することも、1256年の期限までに兵を送ることもできなかった。そればかりか、1258年4月にはシチリア遠征に反対する貴族が武装してウェストミンスター宮殿に押し寄せる有様であった(10)。

 そのあいだにマンフレディはシチリア王国の支配を強固なものにしていった。8月、教皇はマンフレディの王位を正式に承認することを余儀なくされ、エドマンドのシチリア王権とヘンリーのシチリア遠征の義務も取り消されることになった(11)。ただし、その後もヘンリーはシチリア遠征についての交渉を再開しようとしている。1262年9月に至って、教皇ウルバヌス4世は正式にヘンリーとの約束を解消し、シチリア遠征をシャルル・ダンジューに託したのである。


3.教皇−アンジュー同盟

 シャルル・ダンジューについては、すでに1252年、コーンウォール伯リチャードが拒否した場合のシチリア王候補とされており、実際リチャードが辞退した1253年にシャルルとの交渉が行われていた(12)。シャルル自身もシチリア王位獲得を望んでいたのだが、このときには交渉は失敗に終わっている。

 その原因の一つは、シチリア征服が完了するまでに、十字軍のための財源およびフランスの聖職者に課せられた十分の一税の中から年間40万ポンドもの援助金をシャルルが要求したことである(13)。もちろんこれは教皇にとって過重な金額であった。

 さらに決定的だったのは、当時コンラート4世の勢力が強大であったことを危惧し、母のブランシュ、兄のルイ9世やアルフォンソなど親族が反対したことである。とりわけブランシュは、教皇がシュタウフェン家との闘争を「聖戦」へと添加しようとしていることに対しショックを受けていたといわれている(14)。結局シャルルは辞退し、シチリア王冠はエドマンドの手に渡ったのだった。

 教皇ウルバヌス4世はヘンリー3世との交渉を打ち切ったあと、再びフランスとの同盟を模索した。その主な理由は、ウルバヌスがフランス人であり、親フランス的な政策を取ったことにある(15)。また現実問題として、コンラート4世の遺児コンラディンは論外であり、アラゴン王ハイメ1世はマンフレディと同盟中、カスティリャ王アルフォンソ10世はドイツ王(コーンウォール伯リチャードと二重国王)として神聖ローマ皇帝の候補で、北イタリアの皇帝派と提携している、という状況であったため、フランスと結ぶ以外なかった(16)。

 1262年春、教皇はルイ9世の王子のうち一人をシチリア王に推挙しようとし、ルイにその旨伝えた。ルイは、マンフレディを教会の敵、シチリア王国簒奪者として嫌悪を抱いてはいたが、この申し出には困惑した。というのも、彼はすでにエドマンドのシチリア王位へ支援を約していた上に、コンラディンのシチリア王国に対する権利も無視しがたいと考えていたからである(17)。しかし結局彼は妥協し、王自身か息子がシチリア王となることは拒否したものの、教皇がシャルルにシチリア王冠を進呈することには反対しなかった。

 シャルルがこの機会を逃すはずはなく、1263年5月から教皇と交渉を開始した。7月には両者のあいだで条約が結ばれ、主に次のことが決められた(18)。シャルルが約したことは、

1)シチリア王国内の聖職叙任、教会裁判に関与しない

2)聖職者に対する課税、空位司教区からの歳入の徴収を行わない

3)神聖ローマ皇帝位を要求しない

4)帝国領イタリアおよび教皇領内におけるいかなる地位にも就かない

5)王国内における臣下の封土を没収しない

6)ノルマン朝のグリエルモ2世時代のような良い統治を行い、過重な税を課さない

7)教皇がシャルルを廃位した場合、以後臣下に忠誠を要求しない

8)以前イングランドが肩代わりした教皇負債を引き継ぐ

9)教皇が要求した場合、教皇に三百の騎士を供給する


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10)教皇に年間金1万オンスを提供する(ノルマン諸王の時代の30倍にのぼる)

これに対し、教皇はシャルルに次のことを約束した。

11)フランス、プロヴァンス、アルル王国内の教会収入たる十分の一税を3年間与える

12)フランス、プロヴァンス、アルル王国、ロンバルディア、トスカナ、教皇領において、マンフレディに対する十字軍勧説を行う(19)

13)コンラディンや、その他シチリア王位を要求するものが皇帝に選挙されることを認めない

 注目すべき事は、11)および12)において、シャルルの軍事行動を十字軍とする措置が取られていることである。実際、1265年にはフランスの聖職者に向けた非常に詳細な十字軍教書が作成されたほか、十字軍勧説のためにロンバルディアや教皇領に教皇特使が派遣され、多くの成果をあげている(20)。

 その他の条件をみると、過去の教訓から、シャルルが政治的独立を脅かすような強大な勢力となることを阻止しようとする教皇側の意向が大幅に取り入れられているということがわかる。

 しかし、シャルルは単なる使い走りでおわるつもりはなかったから、教皇の思惑どおりに事が進むはずがなく、はやくも1264年3月には両者の間に問題が生じている。その原因は、シャルルがローマの教皇派から差し出された元老院議員職に就いたことである(21)。これはあきらかに前述の4)に違反する行為であった。

 さらにシャルルは教皇が苦況にあることにつけこんで、条約の全面改正を要求した。当時マンフレディの勢力はほぼ全イタリアを制し、教皇は一刻も早く救援が必要な状態であったため、その要求に屈するしかなかった。

 ローマ元老院議員の件に関しては一時的なものとして承認され、シチリア王国を獲得し次第辞任することになった。また3)は、仮にシャルルが皇帝となった場合シチリア王国は次の後継者に与えられる、と変更、4)については、軍事的必要性など、やむを得ない理由があるときは認められ、7)の条項は削除、10)の1万オンスは減額されて8000オンスとなるなど、ほぼ全面的にシャルルの要求に沿ったものとなった(22)。

 ウルバヌス4世が死んで4ヶ月後の1265年2月に教皇となったフランス人のクレメンス4世もこの新条約を承認し、ここに14世紀中頃までイタリア政局の軸となるアンジュー=教皇同盟が成立したのである。

 1265年5月、シャルルは少数の手勢を率いて海路ローマに入り、正式にローマ元老院議員に就任、シチリア国王に任命された。一方、教皇の十字軍勧説によって全フランスからリヨンに終結したシャルルの主力軍は10月アルプスを越えてイタリアに侵入、イタリア各地で多数の「十字軍士」を加えつつ、1266年1月ローマに入ってシャルルと合流した(23)。その後、2月にシャルルは南イタリアのベネヴェントにおける会戦でマンフレディを戦死させた。

 こうしてシチリア王国はシャルルの支配下に入ったが、なおも事態は予断を許さなかった。ドイツで成長したコンラディンがシチリア王位を要求、1268年7月には市民の熱烈な歓迎のもとローマに入城、シチリアでもシャルルの支配に対する反乱が発生していた。

 教皇側も、シュタウフェン家に対する闘争を勝利に導くための最後の努力をしていた。1267年4月シャルルを「総調停者」に任命、コンラディンを破門し、またもや「十字軍」を呼びかけたのである(24)。結局シャルルは1268年8月、タリアコッツォの戦いでコンラディン軍を殲滅し捕虜としたコンラディンを処刑、ここに至り、シュタウフェン家は断絶した。

 教皇はシュタウフェン家との長い戦いに勝利をおさめた。しかし、十字軍を政治目的のために濫用したことは教皇自らの権威を傷つけることになったから、この勝利は高くついたものとなった。しかも、シャルルはシュタウフェンに勝るとも劣らぬ脅威であることがやがて明らかになるのである。


4.シャルル時代の教皇


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 シャルルはシュタウフェンを打倒し、イタリアの覇者となった。そして、以後の教皇は多かれ少なかれその影響下におかれるようになる。しかし、シャルルを利用して長年の宿敵であった皇帝権を倒し勝利者となったはずの教皇が、ここであらたにシャルルに支配されるという、主客転倒の結果となってしまったのはなぜであろうか。

 これは教皇権の本質にかかわる問題である。実は、教皇は多くの場合、外国君主の支援を求めなければならない事情があったのである。

 それは対外的な理由よりも、ローマや教皇領における教皇の立場に原因がある。当時、ローマではコンティ、オルシニ、カエタニ、コロンナといった門閥貴族が権力闘争を繰り広げており、教皇の選任もこれらの党派闘争の的となっていた。13世紀の18人の教皇のうち7人がローマの有力家系出身であり、そうでないものもこれら諸家のいずれかの支持を受けることなしにはその地位を保つことができなかったのである(25)。「国王を廃したり破門したりした、インノケンティウス3世のような、インノケンティウス4世のような、最も偉大な教皇達でさえその首都では安心して生活したことがなかった(26)」というのが、聖ペテロの都市の実態であった。

 したがって、(オルシニ家のニコラウス3世のような)一族の勢威を背景にした政策を取ることができなければ、教皇が生き延びるためには外国君主との同盟に依存するしかなかった。あのフリードリヒ2世でさえ、当初このような期待を持って帝位に据えられたのである。クレメンス4世やマルティヌス4世の場合にはシャルルがその役割を果たすことになった。そして、シャルルの影響力をできるだけ抑えようとしたグレゴリウス10世も、それにかわる君主(この場合はドイツ国王ルドルフ1世)の支援を求めたのである。

 とはいえ、フリードリヒ2世の例で明らかなように、このような外国君主は教皇の政治的独立を脅かす存在となる危険性を持っている。その場合、教皇は一転してこれを全力で排除しようとしてきた。しかしシャルルに対しては、そうしなかった(できなかった)理由があった。

 まず第一に、第3章で述べるようにシャルルがイタリアの教皇派(グエルフィ)の実質的な指導者となっていたことである。フリードリヒ2世時代、反皇帝勢力の支柱であった教皇の地位は、いまや軍事的・経済的にはるかに上回る実力を持ったシャルルに取って代わられていた。つまり、教皇はもはや独力でグエルフィを統率していくことはできなくなってしまったのである。

 また、シャルルは異端的なフリードリヒ2世と異なって敬虔なカトリック信者であり、自分が「神の戦士」「カトリック信仰の擁護者」「ローマ教会の守護者」であると自負しており(27)、また政治的にもグエルフィの盟主という立場上、教皇の支持を必要としていた。そのため、教皇を敵にまわすようなことにならないよう細心の注意を払っていたのである。したがって、シャルルと教皇の関係は多分に相互依存的であった。

 第二に、シャルルが元老院議員(セナトール)として教皇庁の存在するローマを支配していたことである。

 当時の元老院とはローマ市政の最高機関であり、元老院議員は一人のときもあれば複数のときもあるが、ローマの有力家系から出るか、それらの支持のもとに外部から招かれる(28)。つまり、教皇の選任と同様に、元老院議員の選出も門閥貴族の対立抗争と密接にからみあっていたのである。そのため、皇帝派の人物が元老院議員として招かれて市政を掌握し、教皇がローマに入れなかったり脱出を余儀なくされたこともあった(29)。


 シャルルの元老院議員推戴(1263年)の背景にも、このようなローマの実権をめぐる党争があったのである。シャルルは教皇との約束に従い、シチリア王国を獲得した後に元老院議員をいったん辞任したが、タリアコッツォの戦いの直後(1268年)に再任される。シャルルは都市の秩序を再建することに尽力し、財政を掌握、警察力を組織し、裁判機構を整備した(30)。その後、彼自身がローマを訪れることはほとんどなかったが、主にフランス人の代理を派遣してローマを支配した。もっとも、彼が望んでいた終身元老院議員への就任は教皇によって阻止され、任期を10年に制限されていた。

 とはいえ、シャルルのローマ支配の基盤は安定していた。それは、シチリア国王としてのシャルルの実力に加え、かつてインノケンティウス3世などを輩出したローマの名門コンティ家と結んでいたからである(31)。もちろん、シャルルはこのようなローマの支配を背景にして教皇を脅迫したことはなかった。しかし教皇にとって、このシャルル−コンティ同盟が脅威となっていたことは想像に難くない。

 そして最大の理由は、シャルルが皇帝ですらほとんどなしえなかった教皇選挙への干渉を行ったことにある。

 教皇選挙は教皇庁の枢機卿によっておこなわれるが、これはもともと11世紀の半ば、教皇の選出を皇帝の干渉から守るために始められたものであった(32)。しかし、フランス出身の教皇ウルバヌス4世やクレメンス4世が多数のフランス人枢機卿を任命したため、以後の教皇選挙ではきまってフランス人枢機卿と反フランスのイタリア人枢機卿が互いに自国人を選出しようと対立するようになる。シャルルは、このフランス人枢機卿グループに影響力を行使し、自分にとって都合のいい教皇を選出させようとしたのである。

 では、選挙干渉がいかに行われていたのか見てみよう。シャルルにとって、自己の政策を自由に追求するためは教皇座が空位のほうが望ましかった。そのためクレメンス4世の死後(1268年)の会議は、シャルルやフランス派の策動により3年間も空転した(33)。もっとも、あからさまに選挙妨害をしているとみられることは彼の利益にならなかったから、適当なところで妥協させている。

 しかし、こうして1271年に選出されたグレゴリウス10世は真摯な教会人であり、シャルルのイタリア支配や東方計画をことごとく妨害するような結果となってしまう。さらに、リヨン公会議(1273年)では、無意味に教皇選挙が長びくのを阻止する規定が定められた(34)。

 このような教訓から、シャルルは以後露骨に選挙干渉を行うようになる。1276年2月のアレッツォの会議では、これに圧力をかけてシャルル寄りのインノケンティウス5世を選出させた。その死後(同年7月)のローマにおける選挙の際には元老院議員の職権を利用してラテラノ宮を警察力で包囲し、反フランス派枢機卿を外部から遮断し食料の供給を断つなどして、親シャルルのハドリアヌス5世を教皇座につけている(35)。

 もっとも、その後のヨハネス21世(1276年9月)、ニコラウス3世(1277年11月)選出の際には圧力をかけることに失敗した。とくに後者は反フランス派枢機卿のリーダーであり、前述したようにネポティズム的政策をとってオルシニ家の人物を重用したため、またもやシャルルにとって重大な障害となった。

 ニコラウス3世死後のヴィテルボでの会議(1280年8月〜81年2月)においては再び選挙干渉が行われた。シャルルは市民を煽動し暴動を発生させ、それを口実に軍隊を動員して会議場を包囲、枢機卿を威圧したのである(36)。その結果、フランス人でシャルルにきわめて近いマルティヌス4世が選出されたのであった。



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