パレスチナ問題の中のイスラム
パレスチナ問題の中のイスラム
講師 東京大学教授 長沢 栄治 平成17年10月11日 於:如水会館 【無断転記転載を禁ず】 社団法人 如 水 会 責任編集
|
◆内容目次
パレスチナ問題の現在
パレスチナ問題と政治的イスラムの関係
パレスチナ問題は宗教的問題ではない
パレスチナの現状、基本構造、本題、展望
現状と歴史の重み
アラファトの死と今後
オスロ合意とその後
ガザ地区
オスロ合意破綻以降
キャンプデービット会談決裂以降
停戦合意という転換点
シャロンの政策の背景
人口比の問題
オスロ合意失敗の原因
日本のかかわり
パレスチナ問題の基本的な構造
もしパレスチナ問題がなければ…
石油をめぐる争い
西欧近代的な国民国家となじまないイスラム世界?
イスラムの暴力と結びつく中東の政治
パレスチナ問題の長い歴史
問題の起源
民族的郷土
イギリスからアメリカへ
パレスチナ問題と現代中東政治
パレスチナ問題の衝撃
嘆きの壁事件
アラブ大反乱と民族運動の急進化
急進的、民族的政権の成立
パレスチナ問題とアラブ世界の民主主義
冷戦とパレスチナ問題
パレスチナ問題の宗教化
転機1:第三次中東戦争
転機2:イラン革命
転機3:占領下パレスチナ人の決起
自爆事件の頻発
講師略歴
パレスチナ問題の現在
ただいまご紹介いただきましたように、私は東京大学に来る前はアジア経済研究所に勤務しておりました。今回のフォーラムの講演者の中では、酒井さんが私の同僚でした。そもそも私が中東を研究するようになったのは、第一次石油ショックの影響です。その頃就職していたアジア経済研究所で中東研究のプロジェクトを立ち上げていたので、アラビア語を勉強し、中東を研究するようになったのです。その後30年近くやっています。
フィールドとしてはエジプトが中心で、そこから現代アラブの研究へと広めてまいりました。ということで、私はパレスチナ問題ウォッチングを行なう、すなわち毎日、新聞のニュースを継続的に分析する専門家ではないということを最初にお断りしておかなければいけません。今回は、アラブ研究の立場から、パレスチナ問題が中東やアラブ世界、さらには現代の世界を考える上でどういう意味を持つのかという問題の広がりをお話するのが狙いです。
パレスチナ問題と政治的イスラムの関係
パレスチナ問題は非常に複雑な問題です。複雑過ぎて一言で言うのは難しいのです。関与する政治勢力だけを見ても、アラブとイスラエルだけでもそれぞれ右から左まで、穏健派から急進派まで、さまざまです。しかもその相互の関係も難しいし、それをどう分析するかも難しい。さらにそれを取り巻くアメリカやヨーロッパ諸国、さらにイスラム諸国との関係など、さまざまな要素やアクターの分析が必要であり、パレスチナ問題は、まるでこんがらがった糸のように見えるのではないかと思います。
その中で一際鮮やかに見えるのが「イスラム」という糸です。日頃パレスチナ問題とか中東問題に接していると、絡まりあった毛糸の玉の中に一際鮮やかに見えるのが、イスラムの問題なのです。
今回のフォーラムのテーマは「イスラム」であり、「パレスチナ問題の中のイスラム」というタイトルも、今回のフォーラム全体の企画の責任者である一橋大学の加藤先生がお付けになったもので、私としては、パレスチナ問題の中のイスラムというより、パレスチナ問題の現在を考えること、とくに「パレスチナ問題と政治的イスラムの関係」についてお話ししたいと思います。
パレスチナ問題は宗教的問題ではない
パレスチナ問題では、イスラムが宗教的問題ではなく、政治的問題として現れてくるのです。それがどういう関係にあるか、両者の関係をお話します。
パレスチナ問題について、「イスラムという宗教が原因である」という誤解がしばしばあります。一方にユダヤ教があって、一方にイスラム教があり、その宗教の対立からパレスチナ問題が出てきたという誤解です。きつい言い方をすると、そういう嘘の情報を意図的に流して拡大している傾向があります。先ほどパレスチナ問題はこんがらがった毛糸の玉のように見えると言いましたけれども、問題をすっきり説明するために「宗教的な側面で説明してしまおう」という考え方もたしかにあります。
しかし私は、パレスチナ問題は、本来的には「中東で起きた宗教的な問題ではない」と思います。しかし、さまざまな経緯の中で、それが宗教と結びついてきました。さらには、パレスチナ問題がイスラム化して、ますます解決が困難な状況になってきた経緯をお話すると同時に、それがもたらした背景は一体どこにあるのかを考えてみたいと思います。
パレスチナの現状、基本構造、本題、展望
お話のポイントの1つは、パレスチナ問題が中東という地域の文脈の中で持つ意味についてです。そして中東からさらに広がった国際政治という文脈という、幾つかの違ったレベルの中で、もともと宗教的な問題ではなかったパレスチナ問題がイスラムとの結びつきをより強めてきた過程をお話することになります。
話の流れとしては、パレスチナ問題が今どういう状況にあるかという現状について話します。2番目には、パレスチナ問題の基本的な構造が一体どういうものかについて、私の理解をお示ししたいと思います。パレスチナ問題には立場によっていろんな解釈がありますが、なるべくすっきりと解釈するポイントはないかということでお話してみます。次が本論となり、そういったパレスチナ問題がどうしてイスラム化し、宗教化したかというお話をして、最後に展望ということで、今後どうなっていくかを考えてみたいと思います。
現状と歴史の重み
先ずパレスチナ問題は、現在どんな状況にあるのかを考えてみましょう。パレスチナ問題がこのような状況となり、非常に深刻化したのは、1948年のイスラエルが独立した第一次中東戦争から始まっています。イスラエルという国で出来て、多くのパレスチナ難民が生まれましたが、そこからパレスチナ問題が非常に深刻化していきました。パレスチナ問題はそれ以前からもありましたが、国際政治の大きな問題となってきたのは1948年以降なのです。
それから数えると57年くらいたっているわけです。日本の敗戦からが60年ですから、第二次大戦直後に起きた戦争というわけです。戦争中の疎開児童の方々がもういまは高齢になられていると同様、48年時代当時に難民として追い出された若い人達も、いまやかなりの年になっています。この57年の歴史は非常に重いのもがあります。今や第2世代、第3世代、第4世代の人がパレスチナ問題とさまざまな関わりを持っているわけです。家族代々引き続いてパレスチナ問題を背負い暮らしている人がたくさんいるということです。これは非常に大きな問題です。
一方イスラエルという国が出来てからすでに57年たっていますが、この問題も非常に大きなものがあります。長らくパレスチナ人を中心として、アラブの人たちはイスラエルの存在を認めず、こんな国がなくなればいい、ヨーロッパからやってきたユダヤ人はもともと住んでいたところに帰ればいいのだと思う人は今でも一杯いるのです。しかし、国家が50年以上続いているという現実は、非常に重いものがあります。これは、難民として50年以上暮らしているという歴史が重いのと同様です。一度できた国家の枠組みを壊すことがはたしてできるのかという問題の重みは非常に大きいのです。
十字軍の時代、かつてヨーロッパからキリスト教徒がやって来て、100年以上続くキリスト教の王国をつくったことがありますが、それと同様に、イスラエルという国も100年、200年経てばいつかなくなってしまうのだという人がいます。こういう人たちは、「5世代、6世代、7世代後には、我々はパレスチナを取り戻すのだ」と言っています。こういう言い方も話としてはありえますし、実際200年、300年後のことは分かりません。しかし、現在の世界の状況を考える限り、イスラエル国家が50年以上続いている歴史の重みを考えなければいけないのです。その重みを考えた上で、アラブ側もパレスチナ問題が今後どうなっていくかということを真剣に考えなければいけないと思うわけです。この「歴史の重み」 というのが大きな点だと思います。
アラファトの死と今後
昨年11月にパレスチナ解放運動を率いていたアラファト議長が亡くなりました。彼については、晩節を汚したという形で、日本や欧米のマスコミでも、財産を猫ばばしたとか、奥さんがお金持ちでどうのこうのとか、意図的な情報が流れたことが記憶に残ります。たしかにそういう形の厳しい批判にさらされる理由は十分にありましたが、しかしアラファトがパレスチナ建国の父という立場をずっと守ってきたことは重要な事実として評価しなくてはいけません。ただし結局、パレスチナという国をつくることができないまま亡くなったのですが。
彼は1929年の生まれとも言われていますが、この点についてはいろんな説があって分かりませんが、ともかくもう高齢でした。そして彼が代表する、60年代半ばくらいにパレスチナ解放運動、ゲリラ闘争によってパレスチナ奪還を目指すことを考えた革命世代の人たちも、いまや引退する時期になっています。現在のマフムード・アッバース・パレスチナ政庁首長(大統領と訳してもいいのかもしれません)も、アラファトの世代の一番下に属する人です。
そういう意味で、今はこれから新しい世代が国づくりを担っていく大きな節目を迎えている時代と言っていいと思います。この60年近い歴史の流れの中で、一体これからどういう勢力がパレスチナの国づくりの方向を目指していくのかは、まさに大きな問題になってきます。
科学天国への道を考えることができますか
オスロ合意とその後
現在はどういう状況にあるかということですが、果たしてパレスチナ問題は公正な解決によって平和に向かって事態が進展しているのかということです。1993年の「オスロ合意」は、当時のイスラエルのラビン首相とアラファト議長の握手によって結ばれました。当時これでパレスチナ問題も解決に向かうのでないかと、世界中の圧倒的な多くの人は楽観をしていました。しかし、その後の現在にいたる事態を見ると、それとはまったく正反対の方向に向かってきたようにも見えます。オスロ合意は失敗してしまったということであり、そうした状況が現在も続いています。
今はちょっと停戦状態にありますけれども、第二次インティファーダと言われる民衆の蜂起が長く続きました。オスロ合意以前の第一次インティファーダのときは、少年たちが石を投げたりすることはあっても、銃器を使わずに、肉弾戦でたくさんの人が亡くなるという状況でした。しかし、第二次インティファーダは、ご存じのように、自爆攻撃が主体で、爆弾や銃を使い、ほとんど戦争に近い状態で展開し、非常に多くの犠牲者が出ました。結局、オスロ合意の失敗のためにさらに大きな犠牲者を出たわけです。
その後、イラク戦争の後に再びロードマップという構想ができました。これは今後中東和平をふたたび軌道に乗せるにはどうしたらいいかという計画表のようなものです。このブッシュ大統領が提示した計画表も実は、オスロ合意と同様に、その実現も非常に危ういとされています。
ガザ地区
ごく最近の状況としてお話しなくてはいけないのが、テレビ等でご存じの、シャロン首相提案のガサからの撤退です。ガサという地区については、配布資料の一番最後にいろいろな地図がありますので、それで確認していただければと思います。地図の右すみにあるのが(1947年国連分割案の地図)、1947年11月に国連側が提案したアラブとユダヤの2つの地域に分けるという分割決議案です。ユダヤ人の人口がアラブ人の3分の1近くであるにもかかわらず、このような大きな黒く塗った部分の土地、委任統治領パレスチナの半分反の土地をユダヤ側に分けるということに対して、周辺のアラブ諸国やパレスチナ人には大きな不満がありました。
そしてついに48年に戦争になりましたが、ユダヤ人側が勝って、その左にあるような地図(1949年休戦ラインの地図)にあるようなイスラエルの領土ができるわけです。このとき占領しそこなったところが、ガザという地域とエルサレムの右側にあるヨルダン川西岸と言われる地域です。そして67年の第三次中東戦争でイスラエルはこれを全部とってしまったのです。
現在シャロン首相が、ガザにある入植地から撤退するという計画を発表して、それと同時にテロリストが国内に入って来ないようにということで、占領地とイスラエル本土、特に西岸の地域に壁(イスラエル側はフェンスという)を作りつつあります。ところが問題は、その分離壁が停戦ラインではなく、パレスチナ側に食い込んだ形になっていることです。4つの小さな地図の左下(シャロンの分離壁の地図)がシャロンの分離壁の計画です。そうなるかどうかは分からないです。白い部分がパレスチナで、そこへ黒い部分がイスラエルというような形で食い込むようになっており、それと引換えにガザから撤退するということです。
オスロ合意破綻以降
さて、「パレスチナ問題の現在」とは、オスロ合意が破綻した以降の事態をどう考えるかという問題になります。先ほど犠牲者が多いと言いましたが、第二次インティファーダによる民衆蜂起が起こってからどのような状態かを考えてみましょう。英国のBBCの推計では、パレスチナ側の死者は、第二次インティファーダが始まった2000年の9月から今年の9月までのちょうど5年間で3,300人ぐらいです。これに対してイスラエル側の死者は970人ぐらいで、3対1よりもちょっとパレスチナ側が多いという状況です。実は第一次インティファーダのときは、この比率が10対1ぐらいで圧倒的にパレスチナ側のほうの犠牲者が多かったのです。今回3対1ぐらいに縮まったのは、パレスチナ側が強力な爆弾等で自爆攻� �をしているからであり、ですから戦争に近い状態になっていたわけです。
その他いろんな形で亡くなった方がおり、総計では4,500人の方が亡くなっているというのがBBCの推計です。期間によって違いますが、2002年の5月ぐらいまでは非常に激しい戦闘でした。その頃と比率は変わらないわけです。
さて、「パレスチナ問題の現在」というにはオスロ合意の破綻がどうして起こったかということについても話さなくてはいけません。1993年のオスロ合意のあと、1994年に、ガザとエリコという西岸の死海に近いところの二箇所に、パレスチナ側に先行して自治地域をつくってもいいというカイロ合意が出来ました。そしてそのまま1995年の拡大自治協定までオスロ合意は順調に進むかと思われました。しかし、ラビン首相がこの95年の11月に暗殺される事件が発生しました。イスラエル社会の中の宗教的右翼の青年による犯行でしたが、それから事態が暗転します。
ラビンの死後、次の2つのイスラエルの政権では、パレスチナ側との交渉は進展しませんでした。最終的には2000年夏にアメリカ大統領の別荘キャンプデービッドで、バラク首相とアラファト議長が会談しましたが、決裂してしまいます。これについてはいろんな評価があります。イスラエル側は「最大限譲歩したのにパレスチナ側が絶好のチャンスを逃したのだ」という考え方をするのに対して、パレスチナ側ではそれと正反対の解釈をしており、なかなかここの評価は難しいです。これについては歴史の専門家の検討を待つしかないでしょう。
キャンプデービット会談決裂以降
しかし、とにかく決裂が引金になり、第二次インティファーダが発生します。当時イスラエルの野党のリクードを率いていた、現在の首相シャロンが、エルサレムにあるイスラム教の聖地アクサー・モスクを強行的に訪問しようとして、聖地に入ろうとして揉み合いになって衝突が起きたのがきっかけで、第二次インティファーダが勃発したのです。これは2000年の9月の末のことです。
そういう意味では、今回のシャロン首相のガザ撤退提案は、自分の有利な形で幕引きを狙おうという一種のマッチポンプと見られても仕方がありません。自分で火をつけておいて、この紛争はここらへんで手を打とうとしていると言ってもいいと思います。シャロンという人は、筋金入りのイスラエルの右派の指導者です。しかし、一方的にガザを撤退したということで、現在シャロンを暗殺しようという動きもあります。話はなかなか複雑な動きをしていますので、すっきりとしたものではありません。
ともかくシャロンのイスラムの聖地訪問で始まった第二次インティファーダは、その翌年の2001年以降エスカレートしました。というのは、シャロン自身がこの年の初めの選挙に勝って首相になってしまったからでもあります。その後も引き続きパレスチナ側とイスラエル側で暗殺が繰り返されました。
決定的だったのは同じ2001年に起きた9・11事件です。9・11事件がイスラエルとパレスチナの衝突に大きな影響を及ぼしたことは間違いありません。その年の12月には、シャロンはブッシュの対テロ戦争を支持して、自らもパレスチナの過激派勢力に対して対テロ戦争を宣言しました。そして翌2002年からは非常にさまざまな事件が起きました。一々書くとキリがありませんけれども、アラファトが監禁された事件もそうです。そうこうしているうちに、翌03年にイラク戦争が起き、シャロンが再選されるのです。しかし、ブッシュは、アフガニスタンやイラクに対する攻撃をする一方で、パレスチナ問題をきちんと解決しないと、自分の中東政策もうまくいかないという判断をして、「ロードマップ」を発表し、 一方で新しい中東秩序のために旧勢力の象徴であるアラファトの辞任を求めてパレスチナ側に圧力をかけました。
停戦合意という転換点
細かい話は全部省略しますが、2004年になりますと、イスラエルとパレスチナの衝突がエスカレートする中で、ハマースというパレスチナのイスラム急進派の指導者が連続して暗殺されるという事件が起きました。その中でアラファトが亡くなってしまうのです。そしてアラファトが亡くなったことが一つの切っ掛けとなって、アッバース新議長とシャロンの間で停戦が合意されますが、それが今年の2月のことです。一方では、ハマースや左派勢力など、パレスチナの反主流派の人たちがカイロに集まって、アッバースを彼らの指導者として認め、シャロンとの間で結ばれた停戦についても条件付きで同意する「カイロ合意」がなされ、第二次インティファーダは一応停戦の方向へ向かうのです。
こうして先々月、シャロンは、発表していた通り、ガザの入植地を撤去しましたが、しかし形式上は停戦となってはいますが、その後現在まで衝突が断続的に続いています。パレスチナ側では、7月に予定されていたパレスチナ自治政府の議会の選挙を1月に延期しましたが、ポスト・アラファト体制が本格的に展開されようとしています。そのことと、シャロンが一方的にガザ入植地の撤去で示した新しい占領政策とがどう関係していくのかを含めて、この1〜2年は、まさにパレスチナ問題の大きな転回点になる可能性があります。
今までの話をここで整理をしますと、1948年の戦争から60年近くたって指導者の交替が起きていること。一方、オスロ合意が破綻して以降、内戦に近い暴力の応酬で多くの犠牲者を出したプロセスも、シャロンの一方的な紛争を自らの手でおさめようという政策によって新しい段階に向かいつつあり、また同時にパレスチナ側も指導部の交替があったこと。そしてイラク情勢等もあって、地域の情勢はまだ流動的ですけれども、こういう流動的な情勢の中で、再びアメリカにパレスチナ問題に対する強力なリーダーシップを求めるという要求が強まり、パレスチナ問題は転換点にきている、ということです。この転換点をどう見ていくかということは、最後にまたお話したいと思います。
シャロンの政策の背景
先ほどシャロンの行為はマッチポンプみたいだと言いました。第二次インティファーダを暴発させるような聖地への訪問をしながら、再びその紛争を収拾するようにガザの入植地からの撤退をしたからです。ただしその一方で、新しい壁をつくることによって、西岸地域の10%ぐらいを併合しようとしています。その意図するところは、撤退後はパレスチナとは没交渉にして、自分たちのイニシアチブをつくりながら、自分の有利な形で領土的な確定をしてしまおうということだと思います。それがどういう背景から出てきたかについてお話したいと思います。
一つは、言うまでもなく、第二次インティファーダによる犠牲者の多さです。これは誰かが責任をとってこれを収拾しなければいけないのは当たり前です。もう一つは、国際的な圧力ですが、アメリカはこれまでずっとイスラエルに対して甘い態度を示してきましたが、イラク情勢等を考えて、より公正な立場で介入しようとし始めています。その一つとしてロードマップが提示されたわけです。
一方、アラブの22カ国がつくっているアラブ連盟という地域機構があります。これまで60年代、70年代には、アラブ連盟は反イスラエルの牙城みたいなところで、イスラエルの存在すら認めていませんでした。ところが、3年前の決議で、イスラエルの存在も認めるし、初めて67年戦争でイスラエルが占領した地域、即ち西岸とガザから全部撤退すれば、アラブ各国はイスラエルと国交を回復するという言い方をするようになったのです。これまでアラブ諸国の幾つかは、67年戦争の占領地の返還どころか、イスラエル自身の存在を否定することを国の建前としている国が多かったのです。それに比べると、アラブ側はかなり譲歩し、現実的な政策をとってきました。
キリスト降誕のシーンを設定する方法
人口比の問題
さらに、ここでは触れませんでしたが、ロードマップと同時期にパレスチナとイスラエルの穏健派が民間レベルでの新しい和平プランをつくった「ジュネーブ合意」が発表去れ、国際的に大きな反響を与えたということもあり、ここ数年さまざまな圧力がイスラエル政府にかかっているのです。
さらに、一番大きい基本的な問題として、人口比の問題があります。イスラエルが占領している地域でのアラブ人とユダヤ人の間の人口比が、このまま占領を続けていると、両者の人口成長率の違いで、あと数年で同数になってしまうのです。さらに2025年になると、ユダヤ人は完全に少数派になってしまいます。ですから、このまま占領地を抱え込んでいても、「ユダヤ国家でありながらユダヤ人がマイノリティになる」という事態が予想されるのです。そこで、「このへんで占領地を切り離しておいて、彼らとは関係を絶とう」という戦略が出てきたという分析があります。イスラエルについては、人口問題は絶えず深刻な問題です。これについては、また後ほど触れたいと思います。
オスロ合意失敗の原因
そもそもオスロ合意がなぜ失敗したかということもお話しないといけません。それは現在提示されているロードマップにもかかわる問題です。これについては、オスロ合意以後に、パレスチナとイスラエルの両方の治安政策に協力していたCIAの人が少し前にレポートを書いています。彼は、イスラエルとパレスチナの双方の立場に立って、さまざまなテロリスト関係の情報を分析してアドバイスをしていた人ですけれども、「オスロ合意は市民の治安を第一に考えてつくり上げたプログラムであり、それが失敗した原因でもある」と言っております。根本的な問題を棚上げにして、ともかく治安維持が第一であり、「現実的な両者の協力関係が築かれれば、そのうち根本的な問題も解決されるだろう」という比較的甘い見通しだっ たというのです。
根本的な問題というのは、第一にエルサレムの帰属問題です。聖地エルサレムをどちらがとるか。パレスチナ側では、現在全部が自分たちだけのものだとは言っていません。「半分ずつにしましょう」と言っているのです。それに対して、イスラエルは、自分たちの首都であり「全部自分たちだけのものだ」と主張しているのです。
もう一つは、パレスチナの難民の帰還問題です。すごい数のパレスチナ難民がいるのです。それも48年戦争と67年戦争の2回にわたって難民になった人たちがたくさんいます。そういう人たちに帰還権をどう認めるかという問題です。先ほど述べたジュネーブ合意という、パレスチナとイスラエルの民間の穏健派勢力が結んだ合意では、「帰還権は放棄し、その代わり、領土はパレスチナ側が回復する」という、「領土と帰還権の引き換え」が提案されました。ただしこれについては、パレスチナ側で反発する声が強いです。
パレスチナ問題の基本的な本質は、土地と難民の問題であり、土地と人口の問題であります。土地を誰がどのように所有し、管理していくのか。実効的な支配をするか。そこで人々はどのような権利を得るのか。そして、そこから追い出された人達の権利はどう保証されるのか。こういう土地と人間の問題なのです。
土地の中でも最も重要なのは、聖地とされたエルサレムの問題です。しかし、オスロ合意は、そういった基本的な問題を棚上げにして、たとえば、「パレスチナとイスラエルが共同プロジェクトでお互いに経済的な共通の利益を得れば、遠い将来の深刻な問題も乗り越えられるのではないか」という楽観的な展望に立っていました。
日本のかかわり
そして、このオスロ合意の枠組みの中で、日本も中東開発銀行設立といった音頭とりをして、イスラエルとアラブが協力するような機構をつくろうと努力して、経済協力を通じた和平の実現を期待していた時期がありました。しかし、オスロ合意への批判に見るように、その根本的な問題の理解が間違っていたのではないかという指摘があります。
これは現在のロードマップについても言えることです。日本はパレスチナに関しては、現在ロードマップの枠組みに従って援助をしていこうとしていますが、和平の基本的な原則的問題についての解決の方向が示されない限り、ざぶざぶ援助をつぎ込んでも無駄になる可能性があります。たとえば、日本がパレスチナに一生懸命援助した建物やコンピュータなど、いろんなものは、結局イスラエルがブルドーザーでほとんど壊してしまいました。それがオスロ合意の結末なのです。
オスロ合意のとき当事者であった元首相のペレス外相は、いわゆる中東システム構想を提示し、イスラエルの技術と資本とアラブの労働力を結びつけて中東地域を1つの経済圏として発展させていこうというプロジェクトを作りました。それには先進国も協力してほしいということで、日本も中東開発銀行をつくることで協力しようとしたのです。そして何回か経済サミットをしましたが、結局この構想は立ち消えに終わりました。そこには、もちろんさまざまな政治的な背景もあるのですが、しかしもともと経済協力をする現実的な基盤があったのかどうかが問題です。
結局イスラエルは東アジアの日本にはなれなかったわけですし、イスラエルが占領していたガザ地区を「中東のシンガポールにする」と言った人もいましたけれども、シンガポールとは程遠い状況であることを全然考えずにバラ色の和平計画をつくったということです。今までが非常に悲惨なパレスチナとイスラエルの歴史でしたから、バラ色の夢を描くのもよかったのかもしれませんが、これまでの取り組みは非常に非現実的なものであったと思います。和平のプランをつくるのは非常に難しいということがオスロ合意以後の現実です。
パレスチナ問題の基本的な構造
もしパレスチナ問題がなければ…
パレスチナ問題は以上のように複雑奇怪であり、何らかの方法でパズルを組み立てれば一気に解決するという問題ではないのです。その原因は一体どこにあるのでしょうか?
先ほど言ったように、パレスチナ問題にはいろんな政治勢力が絡み合っています。お互いが勝手な、場合によっては予測もつかない行動をとることもあり、その結果非常に深刻な事態がしばしば起きました。
たとえば、歴史における「もしも」ということで、「パレスチナ問題がもしなかったら中東とか世界はどう変わったか」という問いかけをしてみることも可能だと思います。たとえば9・11事件は起きなかっただろうか。イラク戦争は起きなかっただろうか。先進国の人たちもイスラム諸国に暮らしている人たちも心配しているテロ事件は起こらなかっただろうか。こういった問題を考えなければならないと思います。これは中東とアメリカの関係を考える問題と関連してきます。
石油をめぐる争い
私がある大学で講義でこの「パレスチナ問題がもしなかったら中東とか世界はどう変わったか」ということを学生に聞いたことがありますが、その答えに「パレスチナ問題がなくても、中東には石油があって、石油をめぐって列強の争いが絶えないだろう。したがって、中東はパレスチナ問題がなくても困った地域にはなるのではないか」というのがありました。しかし、それは一種の運命論みたいなもので、中東に石油が続く限り、紛争が絶えないという話です。これは深刻な問題であり、現象的には一見分かりやすい議論です。
しかし、よく考えるとそうではないことが分かります。むしろ考えるべきは、石油を世界に安定して供給する地域のシステムがどうしてここに出来ないのだろうか。外部の勢力が入ってこないで、自前で相互の安全を守るシステムがどうして中東では出来ないのか。また、国際社会はそれをどう支援していったらいいのか。そういうことを基本的に考えなければいけないと思うのです。運命論に陥らず、中東地域に対して、国際社会は、こうした安定した地域システムを疎外している問題は何かを考え、積極的に行動しなくてはいけないと思います。
西欧近代的な国民国家となじまないイスラム世界?
さて、先ほどの問いかけに対するもう一つの答えとして、「イスラム世界は一つの民族でまとまった西欧近代的な国民国家という制度とは本来的になじまない社会である」という意見もあるかもしれません。そういう社会ですから、さまざまな宗派とか民族の間で紛争が絶えない。だから「パレスチナ問題が起きなくても中東には紛争が終わることはない」という議論です。しかし、これもまた一種の運命論でしょう。もちろん、1979年のイラン革命はとても大きな事件でしたが、これはパレスチナ問題があったから起きたわけではありません。非常に密接な関係はありますが、パレスチナ問題が原因でイラン・イスラム革命が起こったわけではありません。
しかしながら、後で述べるように、パレスチナ問題が中東のこの地域の宗派や民族をめぐる対立を激化させてきたことは重要な事実です。最大の例がレバノン内戦です。これは1975年から89年まで15年間も続き、国民の何分の1も命を失った深刻な内戦でした。現在のイラクがそのような状態にならないことを我々は切に願っているわけです。この内戦はパレスチナ問題と非常に大きく結びついていました。
イスラムの暴力と結びつく中東の政治
それではここで、中東の政治がどうしてイスラムと結びついて、それがなぜ暴力と結びついてくるのかといったことも、パレスチナ問題全体の宗教化と関係しているのですが、そういうことを考えてみたいと思います。
「パレスチナ問題がなかったら中東はどう変わったか、世界はどう変わったか」ということは、「もしパレスチナ問題が解決したら、中東や世界に対してどのような影響を与えるか」ということです。これ自体については、客観的にどうなるという予想はたてられないものの、大きな影響を及ぼすだろうということは、皆さんもお分かりになっていると思います。パレスチナ問題は、それが真の解決まで至らなくても、かなりの前進を見せない限り、この地域に起きている紛争は解決の方向を見いだせないだろうということです。安定した地域システムはできあがらないだろうということです。その場合、パレスチナ問題とは一体何かということ、その本質について考えなくてはいけないと思います。
パレスチナ問題の基本的な構造については、配布資料の3ページの鍵カッコのところに書いてあります。
パレスチナ問題の長い歴史
パレスチナ問題は非常に長い歴史をもっています。ざっと言って、1920年代から始まって、現在まで80年以上の歴史をもっていると言っていいと思います。その長い歴史にもかかわらず、一貫して変わらない問題の構造、特質があって、それが絶えず再生産されてきたということが指摘できると思います。
その第一は、パレスチナ問題の本質が、この地域の問題ではなくて、欧米のユダヤ人の問題にあることです。これも皆さんご存じのことだと思います。それは、欧米におけるユダヤ人差別の問題や反ユダヤ主義の問題です。これは我々日本人の皮膚感覚では分からない問題ですけれども、大きな深刻な問題です。
この問題の解決が中東に押しつけられたわけです。その背景には、ご存知のように、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的な解決手段として実行されたナチスによるホロコーストがありました。結局、欧米では解決できないユダヤ人問題を中東に押しつける形でパレスチナ問題が発生したわけです。すなわちパレスチナにユダヤ人の国家をつくることになり、ユダヤ人問題を解決するためにパレスチナが選ばれました。これが現在の問題の基本的な原因であり、現在も変わらない本質です。
2番目は、大国による中東地域の支配、管理という構造です。かつてはイギリスが中東地域を支配していました。現在はそれに代わってアメリカが大きな影響力を及ぼしています。このように大国が圧倒的に影響力をもって支配する地域は、世界中に他にはありません。20世紀以降の中東でのみ見られた現象です。
聖書ではドルカス人だった
この二つの結びつき、つまりユダヤ人国家の建設と大国による中東の支配という二つの問題が結びついたところにパレスチナ問題が起き、かつ続いてきたというのが基本的な構図だと思います。いろんな問題がパレスチナ問題に入り込んできますが、本質的な問題はここにあると言ってもいいと思います。
問題の起源
パレスチナ問題の発生の起源については、いろんな本が出ていますが、簡単に言うと、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義、ユダヤ人差別、虐待があって、それに対してユダヤ人達がユダヤ人の国をつくろうという「シオニズム」運動が発生したことが出発点です。そして19世紀の末ぐらいからパレスチナに入植し始めたということがあります。当時はその数がまだ少なかったから、それほどの問題にはなりませんでした。
ところが、それが一変するのは第一次大戦後です。それまでパレスチナはオスマントルコ帝国という大帝国のごく一部に過ぎず、パレスチナという行政区分はなかったのです。オスマントルコ時代のいくつかの州をつなぎ合わせて「パレスチナ」という地域がつくられたのは、オスマントルコ帝国が解体された第一次世界大戦後で、イギリスの委任統治になった時です。
このところの経緯は世界史の教科書で、イギリスの3枚舌外交と言われているところで、一々細かいことは説明しませんが、イギリスがパレスチナという地域をつくり、委任統治領という名目のもと、実質的な植民地支配を行ないました。イギリスの支配の目的は、スエズ運河を守るために運河の近くに自分の植民地が欲しかったのが一つ。そしてもう一つは、シオニストを支援するという目的でした。
なぜスエズの近くにパレスチナという委任統治領をつくったかというと、第一次大戦のときエジプトをイギリスが占領していましたが、トルコ軍はエジプト及びスエズ運河に向かって砂漠の中を進撃してきたのです。砂漠は比較的安全な地帯だと思っていたところに攻めてきたものですから、スエズ運河の近くに緩衝地帯が欲しくなりました。そして、「自分たちがそこに基地をつくって守らないとスエズ運河が維持できない」と思ったのです。スエズ運河は当時イギリス帝国の生命線でしたから、そのためにパレスチナという地域をつくったのです。
民族的郷土
第二にパレスチナという地域をわざわざつくったのは、歴史的にそこが古代ユダヤ王国のあった地域に近かったからですが、しかし、イギリスはこの地域を将来丸ごとユダヤ人にあげるつもりはありませんでした。ただ、ユダヤ人の人達が、あまり周りのアラブ人と喧嘩しない程度で自分たちの民族的郷土(National Home)と言われる自治的な地区をつくってもいいということでした。しかし、その入植地はどんどん拡大していって、自立していき、その後のイスラエルという国になるわけです。ここで重要なのは、イギリスの中東地域の支配と、ユダヤ人のために自治地区をつくってユダヤ人問題を解決することが結びついていったことです。これが、まだ深刻になる前のパレスチナ問題の構図です。
イギリスからアメリカへ
問題が深刻化するのは第二次大戦の後、先ほど言った1948年の戦争が起きて以降です。この時からアメリカがイギリスに代わって中東地域を支配するようになってきます。
その背景には2つあって、1つはホロコーストです。ホロコーストの後、アメリカにはたくさんユダヤ人の人が大陸から流れて来ました。それを見て、将来のアメリカのことを考えれば、パレスチナにユダヤ人国家をつくるべきであるという考えが強まりました。そして政府に対して、パレスチナにユダヤ人国家を建設してもらい、それを守ることを世界政策の基本的な柱にしてもらおうという運動が、アメリカのユダヤ人の間に起こるのです。
こうして第二次大戦中の1940年代にユダヤロビーが成立します。このロビーはみなさんもご存じの通り、非常に強力なものです。そして大戦が終わり、アメリカが自らを中心に戦後の国際秩序をつくっていくように中で、中東における覇権を確立する動きが出てくるわけですが、ここにアメリカ国内のユダヤロビーが大きな勢力として台頭してきます。要するに、欧米のユダヤ人問題解決のはけ口として、アメリカがイギリスに代わって中心的な役割を持つようになり、それとアメリカが中東地域をイギリスに代わって支配していくことが結びついてくるのです。
もちろんアメリカのもう1つの中東支配の狙いは石油であり、その有名な出来事が第二次大戦が終わる直前にサウジアラビアと結んだ「武器貸与法」です。要するに、アメリカは、イギリスとかフランスと同様に、サウジアラビアに対して連合国の一員として経済的な支援をし、その代わり石油を安定的に供給してもらおうとしたわけです。
このアメリカとサウジアラビアとの同盟関係は第二次大戦の終結の直前に出来ています。イランで石油国有化問題が起きたときに、イランの国王をCIAが支援して、クーデターで政権を転覆させ、中東地域で石油に対する権益を握っていく試みもしていますが、これも安定化ということと密接に結びついていたわけです。
パレスチナ問題と現代中東政治
このようにパレスチナ問題の基本構造は、大国の地域支配とユダヤ人問題の解決のはけ口とが結びついていることであり、現在までそれが続いています。この基本的な構造がどう進むかを見ないと、今後のパレスチナ問題の展望はなかなか見えてこないと思います。しかしこれは、いずれもなかなか難しい、根の深い構造的な問題です。
次に、どのようにしてパレスチナ問題がイスラム化、宗教化していくかを述べたいと思います。ということは、パレスチナ問題がアラブ世界とか中東にとってどういう意味を持っているかということです。
パレスチナ問題の衝撃
パレスチナ問題がそもそも中東の1地域の問題ではなくて、中東の中心的な問題となり、さらにそれが世界的に大きな問題となっていった経過としては、幾つかの事件があります。
まずイスラエルが出来る前に起きた2つの事件のことを話さなくてはいけません。それは1929年に起きた「嘆きの壁事件」と、1936年から39年に起きた「パレスチナ・アラブ人の大反乱」という暴動です。これがその後の中東やアラブ世界に与えた影響は非常に大きいものがありました。
嘆きの壁事件
現在は嘆きの壁というと、テレビなどでご承知のように、昔のローマ時代のユダヤ神殿の外壁が残って露出しているところを思い浮かべるでしょう。そこに広大な広場があって、ユダヤ人たちが集まって、壁に頭をこすりつけたりして、熱心にお祈りしているのを見たことがあると思います。しかし、現在の広場はもともと昔、狭い路地だったところで、たくさんのアラブ人の住宅がありました。67年の戦争にイスラエルが占領したとき、あそこにある住宅を全部ブルドーザーで壊してしまい、現在あるような広大な広場が出来たのです。
さて、1929年の嘆きの壁事件は、シオニストの中の過激な人々がこのまだ狭かった路地を無理やり行進し、アラブ人との衝突が起きたのがきっかけです。背景としては、この頃からユダヤ人の入植者も増えていたこともあります。200人ぐらいの人が亡くなり、周りの諸国に非常に衝撃的な影響を与えました。そしてそれからイギリスの委任統治のもとでユダヤ人がさらに移住し、入植地を拡大しアラブ人との衝突が頻発していきます。
アラブ大反乱と民族運動の急進化
そしてその結果、1936年から39年にかけて、パレスチナ全土で大暴動が発生します。イギリスもかなり本格的に反乱の鎮圧に乗り出すような暴動でした。これが周辺のアラブ諸国、イラクとかエジプトとかシリアといった国の政治を非常に急進化させることになります。そして急進的な考えを持つ民族主義者が出てきたり、軍人がクーデターをしたりしてアラブ世界の政治地図は塗り替えられていきます。
なかでもその後のことを考えると重要だったのは、大衆運動としてのイスラム運動がこの時期に成立し、だんだん過激化していったことです。中でも有名なのが、1929年もしくは28年に結成されたエジプトのムスリム同胞団です。これについては、このフォーラムの講座の中でどなたかがお話になると思いますので、私は話しません。この団体は、もともとはキリスト教の青年団体のYMCAのような、いわばイスラム教徒の青年協会であり、社会クラブみたいなものだったのですが、だんだん政治的な意識を先鋭化させていき、パレスチナ問題と密接な結びつきを持つようになるのです。そして、1948年の戦争の時には、ムスリム同胞団は義勇軍を派遣して一緒に戦ったりしています。そして戦争の後には、エジプトの首 相を暗殺し、逆にその報復で指導者ハサン・アルバンナーが暗殺される等の事件を起きます。パレスチナ問題がきっかけとなって、40年代、50年代前半のアラブ世界に、急進的なイスラム運動が成立したという事実は歴史的にとても重要です。
急進的、民族的政権の成立
当時、パレスチナ問題はアラブ諸国のさまざまな政治運動を刺激し、とくにエジプトやシリア、イラクでは、軍人がクーデターを起こして非常に急進的な民族的な政権をつくりました。その後を考えると重要なのは、これらの軍人の民族主義的な政権は、同時期に急進化したイスラム勢力を弾圧することによって政権の基盤を安定化させたことです。たとえばエジプトのナセルはその典型ですし、イラクのサッダーム・フセインはその究極の形だったといえるでしょう。
イラクのサッダーム・フセイン体制のルーツはどこにあるかというと、パレスチナで起きたさまざまな事件と関係します。特に48年戦争の敗戦の影響は決定的でした。当時、アラブ諸国の軍隊は圧倒的多数をもって、新しく生まれたばかりのイスラエルに侵攻して行きました。もちろん、イスラエル側には欧米からの義勇軍や武器援助もあり、また開戦前から用意周到な準備もありました。しかし、とにかくアラブの国の軍隊はあまりにも弱く、また満足な武器もありませんでした。この敗戦の責任をめぐって、戦争に参加した軍人たちが怒って、「このような腐敗した王政には国づくりを任せていられない」ということで、エジプトを筆頭に共和制の革命をするようになるのです。
結局、この頃の1948年戦争を契機に勢力を台頭した民族主義的な軍人がつくった体制、たとえばシリアのバース党とかのアラブ民族主義的なイデオロギーを持った、急進的で非常に独裁的な政権がずうっと続いているということです。その中で究極の形がサッダーム・フセインの体制だったわけです。サッダーム・フセインが生まれてきた背景には、パレスチナ問題によって非常に急進化したアラブの政治があったのです。
パレスチナ問題とアラブ世界の民主主義
もっともパレスチナ問題がなかったら、アラブの各国がそのまま王政の国を続けて、ベルギーとかデンマークみたいなリベラルで穏健な立憲王政の民主国家になったかどうかは分かりません。当時は土地問題などの貧富の格差、深刻な社会問題もありましたから、パレスチナ問題という外圧がなくても王政は転覆したかもしれません。しかし、恐らくは現在あるような形にはならなかっただろうと思います。
さて、このパレスチナ問題とアラブ諸国の民主化との関係という問題ですが、今もアメリカは中東各国に民主化という圧力をかけており、「民主化をどう考えるか」というのは非常に難しい問題です。しかし、現在ある独裁的な体制のルーツは一体どこにあるのかというと、40年代、50年代のアラブ世界の政治にあり、その背景にはパレスチナ問題があったということになるのです。次に、60年代以降になると、冷戦問題とパレスチナ問題が非常に密接に結びついてくるのです。
冷戦とパレスチナ問題
これは「イスラエルがアメリカと」、「シリアやエジプトがソ連と」結ぶという明確な冷戦の対立構造のことです。そういう構図を我々は「冷戦」と言っていますが、しかしベトナムや中東では、それは冷戦ではない熱い戦争でした。中東戦争は、アメリカとソ連の最新鋭の武器のとっての実験場でした。そういう形の中で、パレスチナ問題が冷戦の構造に組み入れられてしまったのです。そのことも、その後パレスチナ問題がかくも長く解決できないで続いてきた大きな原因になったと思います。
パレスチナ問題の宗教化
これから「パレスチナ問題が宗教化してくるのは、一体どこに原因があるのか」という今日の本題に入ります。
先ほど言ったように、パレスチナ問題はサッダーム・フセイン体制に見られるような、アラブ諸国の独裁政治を生みだした背景になりましたが、現在あるような政治的なイスラム運動とパレスチナ問題がどうして結びついてくるのかが次のお話です。そこには幾つかの転機があるんですけれども、最初の二つがとても重要です。
転機1:第三次中東戦争
特にアラブ世界にとっては、1967年に起きた最初の「第三次中東戦争」が与えた影響は非常に大きいのです。今でもアラブ世界は、その敗北のショックから立ち直っていないと言ってもいいと思います。経済的にはともかく、政治的、思想的には立ち直っていません。
それがどういう影響を及ぼしたかというと、先ほど言ったナセルのような軍人たちがつくった民族主義的な政権の権威がこの戦争の敗戦で一気に失墜したことです。この体制を批判する勢力としてイスラム運動が台頭してくるのです。また体制を批判する勢力として新左翼の運動も急速に力をつけ、これと結びついてパレスチナ運動も新しい展開を見せます。そのような急進的な左翼運動の一環として、日本赤軍が関係するハイジャック事件も起きました。
1967年戦争が起きるまで、ナセルたちがつくった民族主義的な軍人の政権は、強力な軍隊を自慢していたのですが、それが「どうしてイスラエルにこんなに簡単に負けてしまうのか」ということで敗戦の責任問題が出てくる。ちょうど20年前の48年戦争の後に王政が倒れたと同じように、アラブの軍事独裁政権も各国で危機に陥るのです。そして、イスラム勢力は出てくるし、左派勢力は出てくるということで、危機に直面したこれらの国は、エジプトを先頭にして右旋回をしていくわけです。
ここのポイントは、「イスラム勢力が67年戦争以降アラブ政治に台頭した」ということです。その背景にはいくつかあって、たとえばエジプトで弾圧されたムスリム同胞団の多くのメンバーがサウジアラビアに匿われていたということがあります。サウジアラビアは当時60年代にアラブの冷戦とも言われるように、ナセルのエジプトと厳しく対立していたからです。
今でもエジプトにはお金持ちのムスリム同胞団の人がたくさんいるのです。ムスリム同胞団というと全然イメージが湧かないかもしれませんが、彼らは60年代にサウジアラビアに行ってビジネスで成功し、ナセルが亡くなった後、サダトが大統領になったので、再びエジプトで活動を許されて勢力を拡大させます。70年代になると急速にエジプトでイスラム勢力が台頭したのです。結果的には、そのためにサダトは暗殺されてしまいますけれども、ムスリム同胞団だけではなく、さまざまな急進的な運動がたくさん出てきます。その背景になったのが67年戦争だったということです。これが1つのポイントです。
転機2:イラン革命
2番目は「イラン革命」です。イラン革命自体はシーア派の革命でしたから、その革命体制については、スンナ派のイスラム勢力の中にはむしろ批判的な人が多いのですが、しかしイスラム主義勢力の拡大を促したことは確かなのです。イランの革命によって中東の政治状況が一変しました。特にイラン革命が起きたあと、隣の国アフガニスタンで親ソ派政権が倒れるのを恐れたソ連が介入してきて、アフガン内戦が起きました。これに対して中東各国から義勇兵達がアフガニスタンに送られてきました。そこにはアメリカに支援されたイスラム・ゲリラがいて、それにビンラディンも参加したことはよく知られています。アメリカに支援された彼らがソ連と戦うという構図があったわけですね。
その一方でイラン・イラク戦争が起きました。これは、イスラム革命が他の周辺地域に拡大することを恐れ、サッダーム・フセインがイランに対する攻撃をし、イラク側をアメリカもソ連もみんなが支援するという構図でした。ということで、イラン革命が起きた以降、中東問題に対する関心は、パレスチナ問題ではなくて、アフガニスタン問題とか湾岸問題に移ってしまいました。パレスチナ問題は国際社会の関心からほうっておかれたということです。
一方、先ほど述べたように独裁体制を批判勢力の台頭から生き延びさせるために右旋回したエジプトのサダト政権は、イスラエルと和平条約を結びました。しかしそのお蔭でイスラエルは、後顧の憂いなくレバノンに侵攻することができるようになりました。レバノンには当時PLOの基地がありましたが、この82年にイスラエルが侵攻をして難民を虐殺する事件が起き、結局パレスチナのゲリラ戦士たちはベイルートから去って行ったのです。
彼らは「勝った」と言って去って行きましたけれども、もちろんそれは撤退であって、この敗北によってPLOの運命は決してしまったのです。結局、彼らは根拠地を失ってチュニジアへと亡命していきました。彼らは武力闘争と外交交渉を同時に行ない、とくに「外交交渉の一つとして石油を武器にして、パレスチナの主権を回復しよう」という運動を進めてきたのですが、武力闘争をしようにも、できなくなってしまいました。
転機3:占領下パレスチナ人の決起
3番目の転機である「占領下のパレスチナ人の決起」、第一次インティファーダが始まるのが1987年です。それまでのパレスチナの運動は、占領地でイスラエルの軍政の下で暮らしていた人たちではなくて、余所の国に流れた難民がつくり出したものでした。
アラファトにしても、彼はカイロ大学の工学部を出ていて、クウェートで建設会社をつくって金儲けをして、その資金をもとに当時の仲間と一緒にゲリラ組織をつくって武力闘争を始めた人です。そういう意味では、難民たちの第二世代のような人がつくった運動がPLOの運動でした。そして、占領地の人たちは、外部にいる難民たちがつくった過激な運動を支持する姿勢を示してきましたが、とくに大きな政治運動をしてきませんでした。しかし、そのPLOの運動が挫折して、アラファトもベイルートから追い出され、さらにPLOの中に反アラファト勢力が出てきて、アラファトの政治的な生命も危うくなってくるような展望のない状況になってきました。
それで占領地の人たちは、「PLOに頼ってきたこれまでの戦略ではパレスチナ問題を解決できない」ということで絶望します。そこからインティファーダという運動が起きるのです。これがパレスチナ問題の決定的な展開で、それまで難民が中心になってきた運動を占領地の住民が中心にやるようになったのです。そしてこの運動は世界的に非常に大きな反響を及ぼしました。
たとえば、それまでイスラエルを支持していたアメリカのリベラルなユダヤ系の人たちも、インティファーダを弾圧するイスラエル軍の暴力行為に反対するようになってきました。当時はまさに情報化の進展による国際報道が始まった頃で、当時の国防大臣のラビンがゴム弾を使い、石を投げた子どもを生き埋めにするといった報道が流れ、アメリカの俳優のウディ・アレンさんが衝撃を受けてイスラエルを非難するなど、イスラエルは国際的に非常に旗色が悪くなるのです。
PLO自体もこのインティファーダを好機とみて積極的にかかわっていきます。インティファーダは、初めの頃の難民中心の運動ではなくて、PLOの幹部が占領地の住民の運動を組織化して、外側から指導するようになります。結果的に言うと、占領地でやっていた運動をPLOの外にいた難民の人たちが乗っ取ってしまったのが現在のパレスチナ政府です。インティファーダの頃活躍した占領地出身の人達も役職についていますけれども、しかし、ここにきて基本的なリーダーシップを考え直す時期に来ていると思います。
それが今後のパレスチナを考えるとき、どのようになっていくのかを予測することは難しいと思います。去年暗殺されたハマースの精神的指導者、アハマド・ヤシーンさんは大変人気のあった人です。私の友人のパレスチナ研究者は「彼はもう数カ月後の命だったのに、どうしてそんな車椅子に乗った老人をわざわざ殺すのか分からない」と言っていました。こうした「カリスマ的な指導者がいるか」とどうかということが、現在もくすぶっている暴力の連鎖を断ち切ることに大きな力を持つように思います。しかし、現在のパレスチナは、もはやアラファトのようなカリスマ的指導者の時代ではなくて、第一次インティファーダを中心になって戦ったような人たちが新しい指導者になっていく時代になのかもしれません。かつて石を 投げていた青年たちが指導者になって、パレスチナ運動を率いていくのでしょう。
自爆事件の頻発
自爆事件については痛ましいことですが、これについては他の外国人が行って「お前ら、これは何だ」と言って止めることができるものではないと思います。それについては、強いリーダーシップがパレスチナ側から出てこない限り、難しいです。もちろんその前提条件としてはイスラエル側の対応が絶対的な条件ですが。先ほど言った第一次インティファーダと第二次インティファーダは違います。第一次インティファーダは非武装闘争でしたが、現在は武装闘争になっています。それをどうするかを考えないといけないと思いますが、なかなかこれは難しいです。
イスラエル側でも、これだけひどくなってくると、ごく少数派ですけれども、兵役を拒否する人たちが出ています。彼らが経験談として言っているのを聞くと、パレスチナ人をいじめて、家を壊したり殺したりすると非常に快感があるのだそうです。そういうものなのかもしれません。経験した彼ら自身は、復讐して相手を殺したりすると、自分自身が限りない快感を得るのだそうです。それはイスラエル側にもパレスチナ側にもあるのです。
イスラエル側は自爆しないで済みますが、パレスチナ側は「他に何もないから自爆もやるんだ」ということです。そういう行為に陶酔している部分も多分あるのでないかと思います。それはイスラエル側でミサイルを撃ったりするときと同じ陶酔なのだろうと思います。そういう戦争の文化が出来てしまっている。それを何とかして克服することを両方側でやらないといけないと思います。
こうしたことに日本は何ができるでしょう。中東における原爆の問題や核兵器の問題も非常に深刻な問題です。インドもパキスタンも持っていて、イスラエルも400発ぐらい持っているわけですから、どうしてイランが持ってはいけないのか。最近エジプト出身のエル・バラダイさんが事務局長を務める国際原子力機関がノーベル平和賞をもらいましたが、これもそういうメッセージだと思います。日本が核兵器を含めて、戦争の悲惨さをお互いに勉強し合うというプログラムを積極的に推進すべきだと私は思います。広島原爆博物館をエルサレムにつくるとか、そのくらいのことをしてもいいのではないかと思います。
講師略歴
長沢 栄治 (ながさわ えいじ)
1953年山梨県生まれ
1976年東京大学経済学部卒業
同年アジア経済研究所入所
1981〜83年エジプト・カイロで海外派遣員として在外研究に従事
1992年アジア経済研究所地域研究部副主任調査研究員
1995年東京大学東洋文化研究所助教授
1998〜99年日本学術振興会カイロ研究連絡センターにセンター長として赴任
1998年東京大学東洋文化研究所教授
現在にいたる
専攻
中東地域研究−近代アラブ社会経済史
主な著書
『西アジア史Tアラブ』(共著)<新版世界各国史8>山川出版社2002年
『地域への展望』(共編著)<地域の世界史第12巻>山川出版社、2000年
『歴史と文化 エジプト』(共著)新潮社、1996年
『中東 政治・社会』(編著)アジア経済研究所、1991年
0 コメント:
コメントを投稿